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10年振りの曲 「主人公」 [好きな曲]


今日も日曜朝恒例のリハビリを終えて、いつものようにPCに向かっています。

お陰様で息子は順調に回復中、1泊3万5千円以上の特別室は3泊で卒業し、木曜日からは念願の大部屋に移っています。でも4人部屋とは言え、1日の差額ベッド代が7000円かかるそうです。でも、1泊3万以上の個室と比べると本当に助かります。
差額がかかるだけあり、ベッド横には専用の冷蔵庫があり、TVは勿論見放題です。これだけの待遇に病気の息子も退屈は退屈なものの、ほぼ満足しているようです。

でも、お陰様で明日月曜日にようやく退院となります。先週末、息子の会社にお願いしておいた健康保険の「限度額適用認定証」も無事に届いたので、退院の準備は万全です。でも、医者から「すぐに働かないで、当分は療養」と言われており、最短でも次回の外来予約2月24日金曜日までは自宅で療養を言い渡されています。
息子は早く復帰したくて仕方がない様子ですが、やっぱり「救急車で搬送されるような大病」だったわけですから、医者の言うことをしっかり聞き、「回復第一」と言い聞かせて、無理矢理納得させています。

でも1か月会社休んだら、家賃その他の支払いが大変なんだろうなぁ… と思います。仕方がないので入院費用(30万ぐらいは覚悟しています!)と休業中の生活費はいったん払ってやるつもりでいます。
まぁ、「出世払い」で、もう少し生活が楽になったらゆっくり返してもらいましょう!


ところで、今日は久しぶりに「昔の好きな曲」について書きます。

月曜日から木曜日の間は、池袋と埼玉の家を往復したりしていますので、ゆっくりTVを楽しむ時間があまりありません。その分金~日の間に翌週のTV番組を片っ端から予約し、週末に見るようにしています。
通常のTV局の番組では、最近漫才番組など「何も考えずに笑える」番組が少なくなったので、バラエティは観る頻度が減っています。
無条件で楽しめ、楽しみにしているバラエティ番組は「ロンドンハーツ」ぐらい。個人的には紳介の番組のファンだったので、彼の引退で楽しみに見る番組が確実に数本減ったのも事実です。

バラエティを見なくなった分、連続ドラマを多く見るようにしています。特に「面白い!」という訳ではありませんが、ビデオに撮って見ているので、惰性的に何となく見ています。
思えば会社に入ってから、家に帰る時間が毎晩11時前後という生活を25年以上続けていましたので、連続ドラマなんて見たのは何年振りでしょうか?
少なくとも、ドラマを見るために仕事を切り上げて早めに家路を急いだのは、堀ちえみの「教官!」で有名な「スチュワーデス物語」以来じゃないでしょうか…
あれって、もう25年ぐらい前のドラマですよね…
それ以来、病気になる前には本当にドラマ、見た記憶がありません。

ちょっと話が横道にそれました。ビデオを撮って見ている話です。

ビデオを撮りまくっていた時、旅行&列車好きの私が撮った番組の中で、数年前に放送した冬の北海道の列車紀行をBSで再放送していた番組がありました。
冬の北海道が大好きで、汽車旅も大好きな私は、深夜に放送されている再放送でもビデオで楽しむことがあるのですが、その番組の主題歌が、本当に懐かしいこの曲、「主人公」だったのです。
でも、その番組で歌っているのは、その番組のナレーターの女性です。
なので先日、早速Youtubeでこの曲を探し、凄く懐かしく年甲斐もなく感傷に浸ってしまいました。

さだまさしさんのこの曲、聞いたのは本当に久しぶり、誇張ではなく10年ぐらい振りだと思います。
さださんのこの曲が発表されたのは1978年、さださん3枚目のアルバム私花集(アンソロジー)です。アルバムが発売されたのは私が高校生の時代、このアルバムも発売と同時に購入し、擦り切れるぐらい聞いた記憶があります。(まだタモリが売れ、「さだまさし=根暗」というイメージをタモリが植えつける前の話です。あれからしばらくして、人前で「さだまさしが好き」と言えない時代がありました。)
その中でもこの曲「主人公」は忘れもしないB面最後の曲。発売当初から「さだまさしNO1の曲!」と圧倒的に支持され,ファンの間では絶対に欠かすことのない1曲になりました。
その割にシングルカットされてもあまりヒットせず、「知る人ぞ知る名曲」は今に至るまでずっとそのままです。
当時中日ドラゴンズの1番バッターで人気者の田尾選手(初代楽天の監督!)が、この曲をシングルカットしてちょっと話題になったこともありました。(ファンとしては、正直「やめてくれ~!」と思っていました。)

私はと言えば、「感動して大好きになって、ずっと聴き続けた。そして、聴きすぎて、飽きた。」という表現が適当なのかもしれません。ずっと大好きでしたが、20年前ぐらいにはやや飽きて、その後はずっと聴かなくなった曲なのです。

でも、10年以上ぶりに聴くと、やっぱりその歌詞にじ~んと来るものがあるのです。歌詞そのものはパリに憧れるような横文字が並んでいる(さださんの初期の作品にはこの傾向の曲が他にもありますね…)ので、高校生時代はまだ見ぬパリに憧れて歌詞を聴いていたのに、パリに毎年出没するようになったら、その横文字がもしかしたらちょっと鬱陶しく聞こえるようになって、だからちょっと鼻についたのかもしれません。
でも、「時を遡るチケットがあれば欲しくなる時がある」など、この年になって改めて聞かされると、じ~んときてしまいます。

なので、改めて歌詞を書き写してみます。
(片仮名で歌っている部分は、片仮名でそのまま書きます。)


時には思い出ゆきの ガイドブックにまかせ
"あの頃"という名の駅で下りて "昔通り"を歩く
いつものテラスには まだ時の名惜りが少し
メトロの駅の前には "62番"のバス
プラタナス並木の古い広場と 学生だらけの街
そういえば あなたの服の模様さえ覚えてる
あなたの眩しい笑顔と 友達の笑い声に
抱かれて 私はいつでも 必ずきらめいていた

"或いは""もしも"だなんて あなたは嫌ったけど
時を遡るチケットがあれば 欲しくなる時がある
あそこの別れ道で 選びなおせるならって…
勿論 今の私を悲しむつもりはない
確かに自分で 選んだ以上精一杯生きる
そうでなきゃ あなたにとても とても はずかしいから
あなたは教えてくれた 小さな物語でも
自分の人生の中では 誰もがみな主人公
時折思い出の中で あなたは支えてください
私の人生の中では 私が主人公だと


間違いなく私人生の主人公である「私」の思い出の曲です。

昔通り、歩きたいな~
 

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謎の曲「サルビアの花」 [好きな曲]


久しぶりに日常生活の話題ではなく、好きな曲のことを書きます。

倒れる前に愛用していたiPhoneを解約し、今年の3月には前のパソコンが壊れたので、我が家には昔の音楽が全然無くなってしまいました。そのためスマホ購入以来時折CDをレンタルして、スマホとPCにダウンロードして楽しんでいます。

最近のCDはともかく、昔のCDは圧倒的に安いのが楽天レンタル。送料別ですし人気のCDは定期レンタルの会員優先で、私のような安物スポットレンタル派にはなかなか回ってきませんが、それでもCDレンタル1枚が50円(先週なんてキャンペーンで36円!)という金額は魅力です。
昔のアルバムを15枚借りても送料込みで1000円程度で借りられますし、10泊11日のレンタル期限とは言えPCにインストールするだけの1枚5分以内の作業だけですから、到着したら翌日にはもう返却できます。

ということで、最近はもっぱら私のツボだった30~40年前の昔のフォークソングのアルバムをレンタルし、ノスタルジーに浸っています。主にオムニバスアルバムをレンタルしていますが、「青春フォークソング」や「俺たちのフォークソング」などのオムニバスアルバムには、同じ曲が多く時には辟易することもありますが、まぁ所詮50円ですので、お目当ての曲が一曲でもあれば満足するようにしています。

先週借りたアルバムの中に、非常に懐かしく昔好きだった曲を発見、思わず40年前にタイムスリップしました。その曲は「サルビアの花」。 曲自体は1970年頃に「もとまろ」(だったかな??)という女性デュオ(調べたら3人組でした!訂正!)が歌って売れた曲です。
曲(メロディー)自体は大変いい曲ですが、歌詞はちょっと不思議な歌詞でした。まず、何故好きな人のベッドに投げ入れたいのが「サルビアの花」なのか? 個人的にどちらかというと投げ入れたく(られたくない)イメージが強い花でした。また歌詞はその頃流行った映画「卒業」のよろしく好きだった人の結婚式の花嫁姿(参列ではなく乱入?)を描いていますが、何故男性の曲なのに一番売れたもとまろを始め岩渕なんとかさん(全然忘れました)など、女性がカバーしていたのか… 謎の多い曲でした。

でも好きな曲なので「いつもいつも」聞いていましたが、そのうち作曲者で最初に歌った人が早川義夫さんという元GS(グループサウンズ 懐かしい!)のジャックス(「僕、おしになっちゃった…」で始まる「からっぽの世界」でちょっと売れたグループ)にいた人で、当時は引退していた人であることがわかりました。

その後、早川義夫さんは歌手に復帰したようです。でも、この「サルビアの花」の歌詞などは私の中では謎のままです。ネットを検索するとこの曲は女性の曲だという書き込みがありますし、早川さん自身も「ベッドの上のサルビアの赤い色は女性の血の色」というちょっとドキっとするような発言もあるようですが、早川さんは作曲だけで作詞は相沢靖子さんという女性の作です。つまり、真偽のほどはわかりません。

でも、1970年代ですからもう40年前、謎は謎のままでもいいような気がします。

時間があったら是非歌詞も想像してみて下さい。
曲は勿論早川義夫さんバージョンです! 
 


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青い瞳のステラ、1962年 夏… [好きな曲]


柳ジョージさんがお亡くなりになられました。
正直ショックであまり声も出ません。
 
学生時代、「酔って候」から「雨に泣いている」など、共感できるブルースとダミ声と言うか決していい声ではない声での曲も趣があってファンでした。
その素朴と言うか思いっきり飾り気のない性格も、大好きでした。「ジョージさん、一緒に酒飲もうよ!」 一度は一緒に酒を飲んでみたい人でした。
 
その時、一緒に歌いたい曲というかカラオケがこの曲でした。
カラオケと言うより聴く曲として大好きな曲で、本当は柳さんのアカペラを、じっくりと聴きたかった曲です。
この曲は、亡くなった方への鎮魂歌。まさに柳さんの今日に相応しい曲のような気がします。
 
「もう一度、船に乗る夢ばかり…」とか「好きなブルースかけてた夜は、決まって夜明けにすすり泣いてた」など、本当にいい人といい付き合いだったんだなぁ~という曲です。
 
そして、最後は「褒めてくれよしゃがれた声で、芝生の下で、眠っていずに…」
 
柳さん、褒めてください。我々みんなを!
芝生の下で、眠っていずに。 
 
合掌
 

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ホームにて (ふるさと行きの乗車券) [好きな曲]


世間では今週は嬉しい3連休ですが、金曜日を休んでいる私には4連休になります。この7月の3連休には毎年岩手県の野田村でイベントと称する年に1回の飲み会があります。そう30年来この村に通い続けている仲間が全国から集まるイベントです。

私は昨年、ようやく初参加しようと夏休みをこの週に設定し、帰りに妻と温泉に入ろうと早々と山形県のとある旅館を予約していました。1カ月前に脳卒中で倒れ、口が利けるようになってから病床より友人に「病気で行けなくなったこと」を伝えて妻に旅館も取消ししてもらいました。当日、集まった友人に「ゴメンナサイ! とりあえず生きています!」と入院先のリハビリセンターから携帯で電話したことを思い出します。あれからもう1年…そう思うと早いものです。

その後、岩手県の野田村には大変なことがありました。東日本大震災… 沿岸地域は壊滅的な打撃を受け、海岸から数キロ離れている野田村の中心街も見る限り大変な被害でした。例年若いころにお世話になったこの村に集まって酒を飲んで昔話をしながら、「この村の素晴らしい大自然を少しでも多くの人に知ってもらう」と言うのがこの会の最大の趣旨でしたが、大震災以降「昔お世話になった村に恩返し!」という趣旨が中心になり、時間がある人はボランティアに参加しているようです。私も、「昔村にお世話になった」と言う意味では人に負けず本当にお世話になったので、この機会に恩返しをしたい気持ちは人一倍強いのですが… 残念ながらまだボランティアに参加できる状況ではありません。何とか一刻も早く回復して、村の役に少しでも立てればいいのですが… そのためにも一刻も早く復活を目指さなくてはなりません。
車の運転ができるようになったら、とりあえず45号線を目指したいと思っています。


今日は「好きな曲」の続きです。先日の書き込みで「学生時代にはまだカラオケもなく、もっぱらジュークボックスで曲を聴いて皆で盛り上がって…」という書き込みをしながら、突然「ジュークボックスと言えば」とこの曲を鮮烈に思い出しました。
その曲とは中島みゆきの「ホームにて」という名曲です。

当時のジュークボックスは、シングル盤が50枚程度入っていた機械だったと記憶しています。確か100円で3曲視聴できたと記憶しています。タイトルを選ぶと、レコードが下のプレーヤーに装着されて、上から針が降りてくる仕組みだったと思います。
シングルは勿論、人気によって定期的に更新されて行きますが、今とは違い最新の曲がすぐに入るわけでもなく、また曲の寿命が今よりは少し長かったような気がしますので、最低半年は一つの曲が入っていたと思います。

勿論、大半が誰でも知っているヒット曲だけが入っているジュークボックスですが、「中島みゆきは知ってるけどホームにて? 知らないなぁ~!」と思われる方も多いと思います。別にこの曲は中島みゆきがシングルカットして珍しく売れなかった曲、ではなく当時のレコードをご存知の方には懐かしい響きがある「B面の曲」だったのです。

ジュークボックスの仕組みは、申し上げたように機械の中のレコード盤を機械が自動セットして、その上に針を下ろして音楽を聴くシステムでしたから、当然レコードにB面が存在する以上B面の曲もA面の曲同様に聴くことができます。当時のシステムでは「B面の曲はA面より安くする」なんていう方がシステム的にはハードルが高いのでしょうから、勿論そんな高性能な機能はなく、3曲100円の料金はヒット曲でもB面の曲でも一緒です。

この「ホームにて」は確かヒット曲「わかれうた」か「悪女」あたりの中島みゆきの結構ヒットしたシングルのB面だったと思います。恐らく大学1年~卒業するまでジュークボックスにしっかり鎮座していたので、それなりのロングセラーかもしくは店の方がよく聞いている我々に気を使って更新をしなかったのかもしれません。

当時ジュークボックスがあったお店は、大学がある駅の大学とは反対側にある2階に上がったところにあるお好み焼き屋の「王将」と言う名前のお店でした。お好み焼き屋と言っても我々がお好み焼きを焼くことは稀で、基本的に居酒屋としての利用が大半で我々が入ったら6時すぎから11時頃まで常に2軒目に行くことなくダラダラといましたので、お店からすれば回転の悪いあまり歓迎されない客だったのでしょう。金払いも決して良い方とは言えず、よく「学生証」を担保に飲み代を借りたことを思い出します。でも、やっぱり学生証がないと試験も受けられないし、旅行に行くにも「学割証」がもらえなかったので、学生証を長く担保にしていた記憶はありません。その都度きちんと返済していたのでしょう。

そのお店で飲んでいる時、2時間ぐらい過ぎると決まって「ジュークボックスタイム」になります。お店の人に千円札を100円玉に両替して貰い、好きな曲を掛けます。まだ若者だったので基本は盛り上がる曲を掛け、「勝手にシンドバット」やら「HERO」を濁声で叫びながら座敷で立ち上がって踊るのが日常でした。

そんな中で、時折静かに曲を聴く時もあり、そんな時に先輩が決まってリクエストしたのがこの「ホームにて」でした。
この「ホームにて」は故郷へ帰る列車の歌です。従って、この曲をリクエストするのは自宅通学組の先輩ではなく、地方から上京してきて現在下宿している先輩が多かったのだと思います。「この曲を聴くと、ふるさとが懐かしくなるんだよなぁ~!」と言っていつも故郷を思い出す先輩の顔をつい昨日のように思い出します。

当時中島みゆきのファンで自宅通学の私は、当然この曲については(LPは全部持っていましたので)知ってはいましたが、特別に好きな曲ではなく、単に「大好きな中島みゆきの1曲」でした。でもこの曲に涙する先輩の故郷に対する思いに接し、「こんなに故郷って大事なものなんだ!」と改めて感じた次第です。

やがて就職し、仙台勤務になり一人暮らしを始めた頃に、この曲を改めて聴くととっても「沁みる」ものがあり、何故か涙が流れるようになりました。
勿論(残念ながら東京ですが)故郷に対する望郷の思いもありますが、「あの頃」にたいするノスタルジーの思いも非常に強くあります。最近、この曲を聴くと当時離れた故郷というより離れて暮らしていた母親のことを思い出すのと同時に、あの王将の座敷で夢を語った生意気な青春時代を思い出すようになりました。

一昨年年末に、JRが「ふるさと行きの乗車券」という乗車券を発売しましたが、この「ふるさと行きの乗車券」は「中島みゆきのホームにての最後のフレーズのパクリじゃないか!?」と思い、一瞬愕然とした思い出があります。
流石に天下のJR、パクリなんてことをするわけはなく、ちゃんとCMにこの中島みゆきの曲が使われていて、安心した記憶があります。

でも欲しいなぁ~! 「あの頃行きの乗車券」 が…


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祝! 200回 & 生きてりゃいいさ(続き) [好きな曲]


今日はめでたい200回目の投稿になります!!

ブログを始めたのは昨年12月22日。通院リハビリしながら半年休んだ会社に出社をはじめて、週2回出勤していた頃です。最初は「とにかく100回続くまで頑張ろう!」と思い、文章は短くても毎日投稿を! と思い、投稿を続けました。目標の100回に到達したのは3月6日。目標通り毎日投稿を続けることができた成果です。

その後は、慶應病院に入院したり池袋と埼玉の二重生活をはじめたり、5月からは週4日の準職場復帰を果たしましたので、ブログを更新するペースはずっと落ちてしまいました。現在はブログはほぼ週3回の更新とパターンが決まってきています。更新するのは
1、月曜日の朝、通勤電車の途上
2、木曜日の夕方、帰宅する電車の途上で
3、日曜日 お昼前後にパソコンに向かって
の週3パターンになりました。まぁ、そんなに書くこともないので、ちょうどいいペースと言えばちょうど良いのかもしれません。そのため、100回目の更新から約4カ月を更新しての200回目になりました。このペースを続けると、年内、300回は行けるでしょうか? とりあえず300という数字を目標に頑張ってみます。

ブログに書く内容は、個人的な日常生活や食事のことなどが多くなりました。もうちょっとリハビリのことなども書きたいとは思いますが、リハビリについては正直あまり書くネタがありません。
というのは、順調に回復して「今週は、○○ができた」とか「最近、少しこうなってきた」というネタが書ければ私も書きたいのですが、本当に手の回復は極めてゆっくりで(本当に「回復してないんじゃない?」と疑いたいほどです。でも回復するのを信じてます!)本当にいつものリハビリ訓練を淡々とこなすだけで、残念ながら良い報告が書けないような状況が続きます。なので、「書くことがない」と言うのが偽らざる状況です。

それでも他人からは「少しづつよいくなっているね」とか「前よりずいぶん歩きも安定しているね」などと励ましていただけます。なので絶対に諦めずに続けるのは続けたいのですが、「回復度合いをブログで綴る」というのは、思いの外難しそうです。

でも、諦めずに… 頑張ります。

そんなブログなので、励みにしているアクセス数も残念ながら停滞を続けています。100回ぐらいまでは「とにかくアクセスアップのためには、マメに更新が肝心! 毎日更新をしよう!」というアドバイスに従い、必死に更新を続けていました。その甲斐あって、100回を超えるころまでには1日100アクセスぐらいまではアクセス数が上がり、順調に伸びてゆきましたが、その後は残念ながら停滞気味、最近はアクセス数100回を切ることも珍しくありません。
まぁ、そんなに興味深いような高度なことを書いているのでもないし、単なる中年男の日常を綴っているだけですから、伸びないのは当然と言えば当然です。でも闘病や入院のことを書くと、その回だけアクセスが上がる傾向があるようです。恐らく同じような経験や苦しみを持った方々がアクセスしてくれるのだと思います。「その期待に応えなくては…」と思う気持ちもありますが、上述の通り「それほど日常には病状の変化がない」ためどうしてもブログにはあまり書きようがありません。期待してアクセスしてくれる方には、誠に申し訳ないとは思いますが…


今日は200回記念なので、やっぱり何か曲などをについて書きたいと思います。「200回にふさわしい曲は…」と考えると、やっぱり月曜日にも書きましたが、「生きてりゃいいさ」です。今日はこれについて書きたいと思います。

河島英五さんのこの曲を最初に聞いたのは学生時代でした。年はよく覚えていませんが、この曲を良く聞いて&歌っていた先輩が2年先輩だったので、その先輩と一緒だった頃ですから大学1年か2年の時代、すなわち1979~1980年だったと思います。ちなみにその先輩は我々のサークルでも出世頭ともいえる方で、地元の誰でも知っているメジャー企業で早くから役員になって、次期社長の声も上がっているのだそうです。(勿論二世などではありません)

調べたらこの曲は1979年に河島英五さんが加藤登紀子さんのために作った曲なのだそうです。(因みに加藤登紀子さんはわが母校都立駒場高校の先輩です。その後加藤さんは東大に行っていますので、私の先輩なのは残念ながら高校だけですが…)言われてみれば加藤さんの曲のイメージもあります。でも河島英五さんも翌80年にセルフカバーしたようで、先輩がよく酔っぱらって謳っていたのは、やっぱり河島英五バージョンだと思われます。

当時、まだ「カラオケ」なんて設備は高嶺の花で、飲んだ時の歌は当然「皆で声を張り上げて歌う」です。一部の店でジュークボックスがありその曲で盛り上がる輩も居りましたが、基本は「自分の好きな歌は自分で歌う」でした。

この印象深い曲、歌詞が本当に「深いぃ~!」と思います。どこが好きと言われると… 最初の曲も好きだし、3番も不思議な歌詞でいいんです。なので今日は歌詞も良く聞いていただきたいと思います。

本当に、「生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ、そうさ生きてりゃいいのさ」です。本当に世の中で自殺に苦しんでいる人の一人でもこの曲を聴いて下さればいいと思っています。





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野風僧&生きてりゃいいさ [好きな曲]

おはようございます。
梅雨明けの空は青く澄み渡って、日差しがとても眩しい朝です。

今日は7月11日、昨年の今頃はようやくリハビリセンターに転院し、リハビリを始めた頃です。
まだまだ伝え歩きもままならず、車椅子で動くことが精一杯だった時期でした。
従って冷房完備な環境の中、暑いなどと考える余裕は一つもなく、そういった意味だけではとても恵まれていたといえます。勿論戻れと言われても絶対に嫌ですが。

今週は、嬉しいことに滋賀に赴任した娘が月に一回の会議のために戻ってくるのです。しかも、今日仕事終了後滋賀を出て、夜中にもう自宅に帰る終電もないので、夫婦のいる池袋のマンションに泊まりに来るとのことです。
嬉しい反面、2人でやっと寝られる超狭い部屋に3人で寝るのはとても不安です。
まぁ結婚当初生まれたばかりの娘を真ん中に寝せて、川の字で寝たことを思い出すことにします。

今週はどんな一週間になるのでしょうか?
今晩、娘が来て明日は娘と久しぶりに外食をする予定にしています。娘は外ではそれなりに酒を飲むみたいですが、家庭で飲むことは殆どありませんでした。息子も翌日休みの日に限ってビール(それもスーパードライ専門!)を飲む程度です。

私の昔からの夢は「自分の子供と酒を飲むこと」でしたが、酒が飲めなくなった今、「もう少し娘や息子とゆっくり酒が飲みたかったなぁ~!」と少し後悔の気持ちがあります。

今は亡くなった河島英五さんの曲に「野風僧」という名曲がありました。
昭和の時代に仙台でよく行ったカラオケスナックのマスターがよく歌っていたのを思い出します。

「お前が二十歳になったら、酒場で2人で飲みたいモノだ~ぶつかき氷に焼酎入れて~、肴はスルメかエイのヒレ~」という歌い出しの曲です。
当時この曲を聞きながら、生まれたばかりの娘や息子と酒を酌み交わす将来を何となく夢みたものです。

河島英五さんの曲にはもう一つ大好きな曲があります。それは今となっては皮肉なタイトルですが、「生きてりゃいいさ」という曲で、学生時代先輩とよく聞いたものです。
私が落ち込んだ時や心が折れそうになった時、この曲を聞いて勇気を貰ったことは二度や三度ではありません。

週末、YouTubeでこの2曲を探してみます!

※野風僧については、この日分に貼り付けさせていただきます。
  「生きてりゃいいさ」は7月15日掲載の200回目のブログに掲載しました。
  是非お読みください!


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フレディもしくは三教街 [好きな曲]


いい加減娘の転勤ショックから立ち直らなければなりません。今日は妻は妹が来ているので、一緒に気晴らしに大宮まで出かけました。私はいつも通り朝のリハビリをこなした後、一人でのんびりしています。

昨日妻の妹が泊りに来ましたが、上京の目的は「さだまさしのコンサート」です。年に何回かさだまさしのコンサートを聴きに仙台から上京し、我が家に泊まります。震災後も昨日が二回目、前回はまだ新幹線が全通する前に列車を乗り継いでコンサートに駆けつけています。
さださん本人も、あんな大震災の直後に「わざわざ被災地から列車を乗り継いで今日のコンサートを聴きに来た」人がいるとは思わなかったのでしょう。知っていたらコンサートで是非紹介してほしかったと思いますが… 妹はそれぐらいさだまさしのファンです。
(ただ仙台でも被害がほとんどない駅周辺に住んでいますので、『家は被災地ではない!』と言っていますが…)

実は私もさだまさしが好きです。最近こそずっと聞いている訳ではありませんが、昔のさださんの大ファンなのです。今日は中でも一番好きな曲について書きたいと思います。

私がさださんの一番好きな曲と確信しているのは… 否、もしかしたら生まれてから聴いている恐らく何万曲(何千万曲?ではないですよね?)の中でもしかしたら一番好きな曲かもしれません。
例えば今、「間もなく耳が聞こえなくなるので、人生最後の一曲を聞くとしたら??」と聞かれたら、今は迷わずこの曲を選ぶような気がしています。
曲の名前は「フレディもしくは三教街」という曲です。この曲はさだまさしが最初に組んでいたユニット「グレープ」時代の曲です。1975年に発売されたグレープ3枚目のアルバム「コミュニケーション」に収納されている曲ですので、誕生してから37年目の曲になるようです。

グレープは74年に「精霊流し」がヒットし世に知られるようになりました。私もこの曲の美しいメロディーラインと抒情的な歌詞ですぐにファンになりました。その後、あまり売れなかったけど個人的にさださんの好きな曲ベスト10には入ると思っている「追伸」や「高田の背番号も知らないくせに」という歌詞がとても印象的な「朝刊」などのスマッシュヒットを飛ばし、抒情的な「ほおずき」やちょうど母子家庭になったばかりに私にはとても印象深く母の後ろ姿と共に忘れることができない「無縁坂」などの様々なタイプの曲もヒットし、その幅の広さというか世界の広さが当時中学・高校生の私をとにかくびっくりさせたものです。
(因みに「朝刊」の「高田の背番号」とは巨人軍V9戦士の生き残り高田繁選手(前ヤクルトの監督)で、背番号は原監督の現役時代の前の8番です。巨人の8番…今は仁志でもなく、谷ですねぇ!)

この「フレディもしくは三教街」ですがコミュニケーションというアルバムでも「いい曲だなぁ~」と思ったのですが、決定的に好きになったのは、その後に発売されたグレープのラストアルバムで2枚組のライブアルバム「三年坂」というアルバムでです。その2枚組のアルバムの2枚目のB面(D面)に収録されているのですが、このD面が個人的にはとにかく大好きで、本当に擦り切れるほど聞いた覚えがあります。

今でもこの2枚目のB面のジャケットと曲順ははっきりと覚えています。
1、さよならコンサート 2、僕にまかせてください (この2曲は「クラフト」というグループにさださんが提供した楽曲を本人が歌ったものです。1曲目の「僕にまかせてください」はヒットしましたが、二匹目のドジョウを狙った「さよならコンサート」は売れませんでした。)3、フレディもしくは三教街ーロシア租界にてー 4、あこがれ 5、精霊流し(アンコール)という順番でした。アルバムに収録されたトークまで鮮明に覚えています。

この「フレディもしくは三教街」という」奇妙なタイトルの曲ですが、さださんは曲名を「フレディ」か「三教街」にしようと思っていたそうです。「曲名、何にします?」と聞かれたときに「どっちか」のニュアンスで伝えたところ先方が誤解して、そのまま「フレディもしくは三教街」という曲名になってしまったというエピソードがあります。結果的にこのタイトルが曲の抒情性というか神秘さを増す効果を生み、「フレディ」よりも「三教街」よりも曲とそのストーリー性を印象付ける素晴らしいタイトルになりました。

曲の内容は是非YouTubeを聴いていただきたいと思いますが、美しいと思われる風景とラブロマンス、戦争の悲惨さを歌った上質の掌編映画のような曲です。2人のロシア租界での暮らしとささやかな夢、そしてすべてを奪ってしまった悲惨な戦争をたった数分の曲の中で完璧に表現した名作です。映画を見たようなエンディングでの強烈な印象が残ります。

この曲で中国に憧れました。舞台は漢口(ハンカオ)という揚子江沿いの街ですが、当時の地図を見ても漢口という地名は出てきません。高校時代は勝手に下流の上海の近くだと思っていましたが、実際は中流で今の武漢の一部なのだそうです。当時この曲と同じく中国特に揚子江に憧れ長江という映画を撮ったさださんと同じように憧れ、一度は漢口と三教街に行きたいと本当に憧れたものです。

大学卒業後、希望通り旅行会社に奉職した私はその3年後に希望通りに中国への初渡航を果たします。ところがその当時の中国は…とにかくまだ解放直後で旅程も秘密ならホテルなども全て政府の指令で動かされます。確かに万里の長城には感動しましたが、トイレをはじめとした国の衛生度の低さなどは想像を絶するほど。100年の憧れも一瞬で覚めた瞬間でした。

当時は漢口が武漢などは全く知る由もありません。フレディが人力車夫を停めた「揚子江沿いのバンド」は上海のそこだと信じて、夜タクシーを飛ばして上海のバンドへ向かいました。少しでも三教街の雰囲気を味わおうと思いましたが、とにかく上海の揚子江は広い! あれは「河」ではなく「海」です。

なのでロシア租界についてはあったかどうかを考えるのはやめました。「私の心の中」には「フレディ」がいる「三教街」があって、ヘイゼルウッドのおじいさんや掃除好きなボンコのおばあさんがいるのです。
そして私たちも年老いたらきっと素敵なおじいさんになっていきます。

※YouTubeの画像が削除されていましたので、別のバージョンにさせていただきました(2011.07.18)


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さよならの言葉 [好きな曲]


今日は昼食後、本当に久しぶりに隣町のイトーヨーカドーに買い物に行きました。

我が家の近くのスーパーには何故か魚の入荷が少なく、我が家に食卓に並ぶ魚が淋しかったのですが、どうも魚が少ないのは震災のせいだけではなく、いつも行くスーパーにも原因の一端があることに気づき、今週末は別の手段で魚を仕入れに行こう!と決心していました。
TVで見る限り、納豆やヨーグルト不足は共通のようですが、どう見ても魚は潤沢にありそうです。

ヨーカドーがあるのは隣の久喜市、やっぱりこのあたりのスーパーでは抜群に大きいので、野菜・魚・肉・惣菜は豊富です。電車で行っても駅からはちょっと遠いので、ちょっとためらう距離です。どうしても車で行くことになります。
今日は娘が休み、本人はたまの土曜日の休みなので友人と遊びに行きたそうな感じでしたが、残念ながら付き合ってくれそうな友達もいないようで、仕方なく親に付き合ってくれたようです。

やっぱり魚は… 潤沢にありました。調子に乗って7~8種類の魚を買いだめ、当分夕食は大丈夫そうです。今日の分で季節はずれですが「さんま」を買いました。これは今日の昼間「メレンゲの気持ち」で出演していた子供お笑いタレント「まえだまえだ」が「さんま大好き!」と言っていたのに触発され、ついつい買ってしまったものです。


ところで、今日も「好きな歌(懐メロ)」の話です。片手で文章を打つ練習でこのブログを続けていますが、正直ネタ切れ状態が最近続いています。パソコンに向かってもしくは携帯を握りしめて…「何を書こうか…」本当に悩む日が続いています。
そんな中で先日BUZZの曲2曲の思い出を書く機会(記事はこちらから)があり、YouTubeのブログへの貼り付け方も割と簡単だったので、早速「好きな曲」というカテゴリーを新設しました。

正直好きな曲は大半が「懐メロ」になってしまいました。幸いなことにYouTubeに掲載がある曲が多いようなので、お聞きいただいたら非常に嬉しい限りです。

今日ご紹介するのは小野香代子さんという方の「さよならの言葉」という曲です。

この曲は1977年の第13回ヤマハポプコン(ポピュラーソングコンテスト)のグランプリ受賞曲です。2年前のポプコンのグランプリが中島みゆきのあの「時代」です。あの頃は中島みゆき以外にも因幡晃や八神純子が出てきた時代で、翌年は「あんたのバラード」であの世良公則がブレイクします。この第13回は私も記憶がありますが、どちらかというと地味な回だったのかなぁ~ と思います。

この曲にも痛烈な印象はなく、歌手にもそんなに強い印象はありません。「まぁ、いい曲だな」程度の印象です。

ところが、この曲をこともあろうにポプコン出身の八神純子さんが2枚目のシングルとしてカバーします。八神さんのデビュー曲は「思い出は美しすぎて」。勿論彼女自身の作品で、プチヒットします。ポプコン時代から注目していた私は、デビュー曲で彼女のファンになりました!2作目の「さよならの言葉」は、別の方がポプコンでグランプリを取った曲と知りながら、「まさに八神さんのためにある曲」ぐらいに思い、ますます彼女の世界に惹きつけられました。

実はこの「さよならの言葉」は2万枚以下しか売れず、商売的には大失敗だったのだそうです。歌手として崖っぷちだった八神さんは、その後「みずいろの雨」や「ポーラスター」などのヒット曲を得て、一躍人気歌手になります。
私も八神さんのファンを続けましたが、「どの曲が一番好き?」と聞かれると、ほぼ決まって「2作目のさよならの言葉」と言い続けていました。
私の高校時代から大学時代の思い出です。

時代は流れて数年前、TSUTAYAでCDを借りていた時です。たまたま1枚のCDが目に留まりました。「ポプコン・ガールズ・コレクション」というアルバムで、当時のポプコンの女性ボーカリストのオムニバスアルバムです。この中に小野香代子さんのオリジナルの「さよならの言葉」が収録されていました。

20年以上ぶりにオリジナルを聴き、目からウロコが落ちた気がしました。勿論八神さんの曲がいいことには全く変わりはないのですが… 小野さんのオリジナル こっちももの凄くいいのです。
「30年前にもっと真剣に聴いておけばよかった!」と後悔しています。

それからネットで小野さんを検索していますが、殆どHITしません。この曲のCDはあるけれどその他の曲のCDなどの情報もなく、アマチュア活動を続けていたのでしょうか…

ただこの珠玉の一曲を残してくれたことに深く感謝します。


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はつかり5号 [好きな曲]


おはようございます。今日は妻が外出して一人なのでのんびり過ごしています。朝、ゆっくり起きていつもの運動をした後、サンデーモーニングとサンデージャポンと珍しくTBSの番組を連チャンで見ています。この後「アッコにおまかせ」や「噂の東京マガジン」も見るので、日曜日はよく考えたらTBSデーですね。
普段は日テレが圧倒的に多いのに…

今日は昨日続き「はつかり5号」の思い出です。

ウィキペディアによると1972年にケンとメリーでデビューしたBUZZですが、恐らく私が知ったのはその数年後だと思います。特に痛烈な出会いの印象は全くなく、「気が付いたら知っていた」としか今では思い出しようがありません。「ケンメリ」は早くから知ったと思いますが、その他のBUZZの曲もどういう手段かは忘れましたが知って、聞いていたようです。

実はもう一曲特に思い出はありませんが好きな曲がありました。1974年にリリースされた「さらばTOKYO」という曲です。
思い出すのは歌い出し「僕は決してこの街が、嫌いではないんです。愛しているかもしれません。」から始まって「さらばと~きょう、さらば僕のふるさとぉ、 うぅ~ううう~」というサビも忘れません。久しぶりに聴きたくてYouTubeを探してみましたが、同じタイトルの別の曲しかヒットしませんでした。この歌は当時東京都民だった私には、故郷脱失計画もなかったので全然思い出はありません。

さて、「はつかり5号」です。この曲の思い出は高校2年の時の北海道旅行です。
(今日もちょっと長くなります)

中三の正月に父親を亡くした私にとっては、高1の最初の夏休みは親父の初盆。墓のある九州福岡へ旅行に行きましたが、高校に入学した私は折角お盆に旅行に行くのなら… と思い、行きは甲子園で憧れの高校野球を見て、盆の行事の後は長崎へ行き当時「グレープ」の曲で一躍有名になったお祭り「精霊流し」を見に行きました。
その後阿蘇山を観光して帰った私は、初めての「ユースホステル体験」もして「旅でいろいろな年代や地域の人との出会い」も体験して、すっかり旅行好きになって帰ってきました。

帰りのブルートレインの中で「旅行ってこんなに楽しいんだ!」って、初めて旅行の楽しさ&素晴らしさを知るきっかけになりました。思えばこれが旅行産業に30年も奉職する私の人生の方向を決めてしまった瞬間なのかもしれません。

「じゃあ、来年の夏にはもっと遠いところへ長い旅行に行こう! そうだ! 北海道だ!」これも帰りの電車の中での思い付きです。まだ見ぬ北の大地に思いを馳せながら、ブルートレインの夜を過ごしたことを覚えています。

その後の1年間は、計画を作ることに没頭し、熱中しました。何度もプランを組み、組んでは作り直しの連続でした。プランを作ることがもう既に旅行の始まり! という楽しみも知りました。
秋以降はせっせとアルバイトをして旅行の資金確保です。正月には年賀状配達のバイトもやって、親に頼らずの旅行計画が徐々に出来上がっていきます。

ようやく大枠のコースを決めたのは3月。出発日を8月7日に決め、旅行期間は当時の国鉄の「北海道ワイド周遊券」の有効期限一杯の20日間です。当時のユースホステルの予約受付が4月1日~なのでその前に全宿泊施設に往復はがきを送付しました。出発日を8月7日にしたのは、旅費が少し足らないので母親にお願いして、夏休み開始から約20日間、何度かバイトしたことがある母親の会社(弁当屋)で最後のバイトをしてから行く必要があったからです。また、夏休みを5日残して帰るのは、宿題を突貫工事で仕上げるためです。

ユースホステルからは、一部を除いてOK回答が届き、NGだったところも何とか代案が確保できて、ようやく旅行プランが固まりました。そうなると今度は列車の指定が必要なところは指定券を買わなければなりません。

今回の旅行は北海道ですから、魅力あふれる東北も今回はスルーです。最初の観光地は北海道の玄関口函館。私のプランでは最初の観光は絶対函館!と決めていました。それも朝市と夜景は絶対です!
しかも高校生の貧乏旅行ですから、宿泊は可能な限り夜行列車を使い、宿泊費と移動時間を浮かせたいところです。

そう考えると初日の宿泊は青函連絡船の船中。4時間の船旅ですが、学生の体力には十分です。幸いなことに当時0時代の夜行連絡船があり、朝の4時過ぎに函館港に着きます。そうすると朝市も勿論函館市内の観光にはたっぷり1日かけられます。昼間に津軽海峡を渡り、津軽海峡の海風を全身に浴びながら「北海道だぁ~!」と感激し「いかづくし定食」を食べたい気持ちもありますが、この楽しみは犠牲にしなければなりません。

当時、この連絡船に接続する特急列車が2本ありました。常磐線経由の東京から青森行きの特急「みちのく」と東北線経由の「はつかり5号」です。

当時の「はつかり」は上野から青森に行く快速特急列車で、1日に5本運行されていました。ちなみに当時は「号」には上り下り両方あり、上野発の「はつかり」も1号から5号までありました。(そうです。青森発にもはつかり1号から5号までがありました)
勿論新幹線のない当時、仙台までの特急列車は「ひばり」、盛岡や青森まで行くのが「はつかり」で、確か指定券も近距離の場合発売制限があったと記憶しています。

特に当時の「はつかり5号」は記憶の限りでは超優等列車。夜行の青函連絡船に乗り継いで北海道に急ぐ人の専用列車のイメージでした。確か函館から早朝4時代の特急北海に乗り継ぐと昼前には札幌に着けるダイヤだったと記憶しています。
確か16時過ぎに上野駅を出発、信じられないくらいの停車駅でぐんぐん飛ばします。
毎日時刻表を見ていた記憶で、停車駅は
上野/大宮/宇都宮/(記憶では郡山?)/福島/仙台/盛岡/青森
たったこれだけの県庁所在地限定の停車駅だったと記憶しています。
まだ当時は「鈍行の魅力」に気づいていた頃ではなく、「優等列車への憧れ」だった高校生にとって、既にBUZZが歌って知っていたいた「はつかり5号」への憧れは募るばかりです。

ついては、この8月7日の「はつかり5号」の指定券を手に入れようと、1か月前わざわざ学校をさぼって某旅行会社の店頭に並びました。当時は国鉄窓口でも旅行会社でも朝に並ばないと指定券が買えませんでした。
私の指定席希望は
第一希望 はつかり5号
第二希望 みちのく
第三希望 はつかり4号

当時の指定券は朝発売ですが引き渡しは2時以降、その日の午後に店頭に行きましたが「はつかり5号」満席で「みちのく」で取れました! という結果です。

みちのくは確か2時半上野発で常磐線経由です。これも当時人気列車だったので今考えたら「ねぶた」「七夕」の開催中ですから取れただけでも喜ばなければなりません。

ということで結局「はつかり5号」は乗れませんでした。
大学入学後東北と北海道に「ハマり」ましたので、休みのたびに東北本線に必ず乗っていましたが、大学時代は「貧乏=特急には乗らない」旅行です。

そんなことで本音を言えば東北新幹線の青森駅の列車名は「はやぶさ」ではなく「はつかり」になることを密かに望んでいました!!

そんな思いでBUZZの曲を聞いて下されば幸いです。


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ケンとメリー(久々の続き) [好きな曲]


今日は買い物に行こうと早く起きましたが、マンションの6階でも風の音が強く、恐ろしいほどなので、買い物を断念して一日中家にいました。
昼間はテレビデー。撮り溜めしおておいたTVと映画を見ました。

TVはいつもの「俺たちの旅」最近は結婚したグズ六の出番がめっきり減り、3人目はまた東大を落ちたワカメ(森川正太)になった感じです。再放送がまた週2回(水・木の夜11時~BS7)に戻ったので週末にはまた2本たっぷり見られてどっぷりノスタルジーに浸れます。

映画は昨日放送があった「築地魚河岸3代目」。この話は昔暇つぶしに妻の実家でコミックを読んでからのファンです。昨日は娘が「イロモネア」とバッティングしたので映画をビデオに撮り今日楽しみました。

確か映画は昔レンタルで見たのですが、結構面白かった記憶はあったので楽しみに観ました。やっぱり…面白かったです。映画では築地に就職するまでを描いていますが、みていて新鮮な魚が食べたくなったのと築地に行きたくなりました。

どの映画でも、映画では簡単に会社を辞めます。それで映画ですから何とかなっていますが、現実はそうはいかないはずです。

個人的には一度も会社を辞めたことはありません。昔から「辞めたい」とか「辞めよう」と思ったことは本当に無限にありますが、現実的には結局会社にしがみついているので、一度も辞めたことがありません。従って「会社を辞めた」ことのある人は本当に尊敬します。

昔は「50になって子供も手を離れたら、会社を辞めて好きなことをしよう!」と夢見たこともあります。しかし…50になった直後たった一週間後!)に倒れてしまったのでこのプランを検討するような余裕はありません。

特に病気をすると老後特に金銭の不安が付きまといます。我が家のローンもまだ20年近く残っています。こんな時にはいつも宝くじに当たる夢を見ます。3億円当たったら…さっさと会社を辞めてとりあえず1年はのんびりと充電するな~ と考えます。

残念ながら現実には宝くじも当たる気配はありません。まぁ倒れる前に「ボーリングのハイスコア」と「ゴルフのホールインワン」なんていう奇跡が2回続いただけで見事に脳卒中で倒れてしまった(詳しくは回顧録「倒れてから現在まで」の第2回以降を参照ください)わけですから、宝くじで3億当たったりした日には、おそらくそのままショックで昇天してしまうでしょう!?
でも、宝くじは買い続けています。前回もグリーンジャンボをネットで買い、仏壇に供えてあります。今回もし当たったら1億は被災地に寄付ですね!! それでもまだ1億残るし!

昨日帰りの書き込みから、3月11日震災当日の行きがけに書きかけた「ケンとメリー ~愛と風のように~」の続きが気になっているので、大した話ではありませんが続きを書いてしまおうと思います。2週間ぶりに続きです。(3月11日の書きかけはこちら

この曲は日産スカイラインのCMソング。「ケンとメリー」というフレーズは恐ろしく有名で、当時は誰でも知っていました。最初にこのCMが流れたのは1972年ぐらい。ちょうど私が鉄道少年でありながら、初めて自動車にも興味を持ち当時晴海で開催されていたモーターショーに初めて友人といった頃の話です。

当時スカイラインとりわけGTは「スカG」と言って我々子供たちの憧れでした。流線型のハードトップと丸型のテールランプは少年ながら「免許取ったらスカGに乗るぞ!」と決意をさせるには十分の美しいフォルムでした。今でもあのハードトップの美しい横から見たときの格好良いフォルムと丸いテールランプが4つ並ぶフォルムは忘れられません。

このケンメリのスカイライン、恐らく5年ぐらいこのモデルで販売していたと思いますが、その5年間恐らくずっとこの曲がCMソングだったのではないでしょうか?今では考えられないくらい息が長いCMでした。CMのパターンは何種類もありましたが、CMソングは全部これだったと記憶しています。「いつだって、どこに~だって」ではじまり、サビは「道の~向こうへ出かけ~よう 今が通り過ぎていく前に~」そして「あ~いの~ スカ~イライン」と終わる曲です。

この曲を歌っていたのはBUZZという2人組のグループです。ケンメリは72年ですから私が小学校6年の時のリリースです。その年ではフォークなどにまだ興味がなかったので、曲は知っていてもアーチストを知ったのは恐らく中学生に(もしくは高校生に)なってからだろうと思います。
今ならCMであれだけ流れればブレイクしてもおかしくありませんが、当時はCMソングとヒットが直結していなかったので、残念ながら決してヒットしたわけではありませんでした。

しかし、私の印象にはケンメリとスカイラインは強く印象に残っています。当時は超マイナーな観光地で、その後ブレイクした観光地北海道の「美瑛」には「ケンとメリーの木」という観光地があります。勿論、あのCMで使われた風景です。

私も以前訪れたことがありますが、美しいところなのですが流石にCMそのものは思い出せませんでした。ただ、この曲を当然のごとく口走ると似合ったのを覚えています

YouTubeで懐かしいCMと歌を見つけたので、初めてのトライで貼り付けてみます。
(失敗したら単なるリンクにします。)

BUZZといえばもう一曲記憶に残る曲があります。「はつかり5号」という曲です。
この思い出は次回!


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