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父親の思い出 [回顧録]


今週も通常通り週5日の通常勤務をこなしました。
そのためやっぱり疲労があったのか、土曜日は本当にぼ~っとしてのんびり過ごしました。

ところで今週、10年振りぐらいに父親の夢を見ました。親父が死んでから既に35年、昔(亡くなった直後)は親父の登場する夢を頻繁に見ましたが、この20年前ぐらいはめったに見ることは無くなりました。
久しぶりに夢を見て考えると、「そういえば俺の親父、何の文章にも何にも残っていないな。このまま私が死んでしまうと、親父がこの世に生存した証明というか記録が何にもないなぁ… じゃぁ、ブログにでも親父のことを書いて、親父がこの世に生きた証明でもとりあえず残しておくか!」と、他愛もないことを考えました。
ということで、今日はいつも以上に退屈なネタになりますが、私の親父のことを書いてみたいと思います。

親父が生まれたのは昭和の最初の年、昭和2年です。(昭和元年は、前大正天皇が12月末に崩御し、1週間ぐらいしかなかったらしいので…)1927年ですから85年前になります。誕生日は11月25日になっていますが、本人によると「本当は10月生まれらしいのだが、親父(つまり私の祖父ー勿論明治生まれ!-)が出生届を出すのを忘れていて、11月生まれになったのだそうです。今では出生届を出し忘れたとしても、生まれた日を1ケ月も偽るなんていうのはあり得ないと思いますが、まだ85年前はそんなことも許されたのでしょうか? ちょっと不思議な気もします。

親父の名前は照明と書いて「てるあき」と読みます。子供時代は「電球みたいで変な名前?」と思っていましたが、その後「意外といい名前だなぁ~」と思うようになりました。皆からは「テルちゃん」と呼ばれていました。因みに両親(私にとっての祖父母)の名前は明治生まれなのに「秀樹とイヨ」 昭和後半のアイドルの名前と同じで意外とモダンだったりします。

生まれたのは福岡市内で、根っからの九州男児です。私も幼少時代、親父の実家には何度か遊びに行きましたが、今では既に人手に渡っており、場所も定かではありません。
数年前、知人の結婚式で福岡に行った際、時間があったので住所を頼りにそのあたりを歩いてみましたが、最後に訪れたのが小学校5年生の昭和46年… 残念ながら覚えている街並みは一つもありませんでした。

親父は5人兄弟の3番目。男が3人続いて、下は2名とも女の兄弟なので、真ん中と言いながら兄と妹しかいません。親父の幼少時代のエピソードは語られたのかもしれませんが、正直殆ど覚えていません。聞いていた私が中学生までなので、あんまり興味のなかったことは覚えなかったのでしょうか…

親父の実家は、昔は「黒田節」で有名な九州の黒田藩の武士だったとのことで、当時はかなり裕福な旧家だったのだそうです。古くから長男の仕事は「家長」というだけで、特に仕事はしていなくても生活できたらしく、その程度のお金はあったのでしょう。なので親父の育った家(昔は本家ーホンヤーと言っていました)は私が知る限り大変大きな家でした。今覚えているだけでも1階だけでも最大20畳ぐらいの客間を筆頭に、部屋は10以上はあったはずです。兄家族などは私が泊りに行っても決して入ることのない家族だけのスペースで生活していましたので、部屋は全部で20以上はあったのでしょう。(2階を入れるともっと??)ただ、そんな生活は長く続くはずはなく、親父の兄貴の代で残念ながらその本屋は人手に渡ってしまったそうです。

中学校を出た親父は、勉強があまり好きでなかったこともあり、進学をしなかったとのことです。このことを後日親父は大変後悔しており、「俺は学歴がなくて苦労した。だから息子(つまり私)にはこんなみじめな思いをさせたくない。だから俺の夢は息子を東大に入れることだ!」と酔っぱらうと声高に言っていたのが思い出です。
親父のたった一つの夢は当然叶えられませんでした… 「申し訳なかった」と今でも時折思ってしまうことがあります。

中学を出た親父はこれといった定職につくこともなくブラブラとしていたようです。一応労働はしていたようなのですが、「これをしていた」という仕事はあまり聞いたことがありません。戦争中は中国東北部(旧満州)最北の都市ハルピンにいっていたのが自慢でしたが、ハルピンでもアルバイト程度の労働をしていたのでしょうか??
また、終戦をハルピンで迎えていれば「命からがら逃げて帰ってきたこと」や「捕虜になって」いたはずで、その思い出などを絶対私は聞いたことがあったのでしょうが、帰ってきた時のエピソードは殆ど聞いたことはありません。つまり、終戦前には福岡に帰って来たのかもしれません。

召集令状が来る20歳直前に終戦を迎えます。この頃の親父のことはあまり思い出話にも出てきません。25歳ぐらいの時に、一旗上げようと思ったのか、それとも故郷を出たい何らかの理由があったのかは不明ですが、東京に出てくることになります。
この前後の最大の自慢&思い出話は「捕鯨船に乗って南氷洋に行ったこと」です。この話は昔の一番の自慢話で、本当に何度も何度も聞きました。
一回の航海は半年ぐらいらしく、恐らく親父は1回だけ船に乗っただけなのでしょうが、この船で「大きなクジラと格闘した話」が酔った親父の十八番でした。

その後はタクシーの運転手をしていたようです。あまり誇るものがなかった私の親父ですが、何故か車の運転だけはメチャクチャ上手く、私も親父の車に随分乗りましたが、未だに記憶に残る安全運転でした。また、当然カーナビのない時代ですが親父の都内の道の知識も抜群だったのは、その頃から身についたものでしょう。

32歳の時に見合いで母親と結婚。今思い出しましたが、結婚記念日は昨日、6月2日でした!(これ、本当に無意識の偶然です。だって結婚記念日なんてもう10年以上忘れていたし)
母の晩年、「実は親父はバツイチだった。昔エミコさんという奥さんがいたらしい。」という昔話を母親からカミングアウトされた記憶があります。でも母の没後、相続の関係で親父の除籍謄本を福岡から取り寄せてじっくりと見ましたが、戸籍によると父も母も初婚で、キレイな戸籍でした。真偽のほどは謎のままです。

翌年昭和35年に長男(つまり私)が生まれます。3年後には次男が生まれますが、未熟児で生まれてきたため、名前を付ける前に生後4時間で亡くなりました。この弟が生きていれば、恐らく両親(と私)の人生も大きく変わっていたことは間違いないと思います。

私の幼少期からの親父は、胃潰瘍を患うようになり、定期的に入退院を繰り返すようになります。当時「ピロリ菌」が発見されていれば、こんなに胃潰瘍で苦しむこともなかったと思うのですが… 半年~1年働いて、胃潰瘍が悪くなり数か月入院 という状況の繰り返しだったようです。
電車好きの私は幼少時代、電車に乗って新宿に行くのが楽しみでした。小学校低学年時代、100円玉1枚を握りしめて電車に乗るのですが、100円の内訳は
祖師ヶ谷大蔵~新宿 片道20円(子供料金)×2
新宿サブナード地下街での豪華ソフトクリーム 60円 で合計100円です。
当時ラーメン一杯60円の頃でしたから、贅沢なソフトクリームでした。
その頃の新宿に行く目的 =「入院中の親父の見舞」 だったのです。

そんな状況だったので一つの仕事をあまり長く出来なかった親父ですが、一番長く数年続いたのが、今はもうない国護ゴムという会社の「お抱え運転手」でした。
親父は毎朝ピカピカに磨いた当時の高級車「セドリック」で社長を迎えに行き、夜は社長を送り届けて自宅にセドリックで帰ってきます。
週末は、本当は禁止なのでしょうが高級車セドリックで家族でドライブを楽しんだことも数々ありました。黒塗りで真っ白なシートカバーの高級車にてドライブ。
束の間の「セレブ気分」を満喫した瞬間でした。

そんな親父は本当に酒が大好きで、胃潰瘍で医者に酒を止められていたにも関わらず、家族の眼を盗んでは日本酒を飲むような人でした。結局そのお酒が人生を縮めてしまったのでしょう。その酒好きの趣向だけは子供にも孫にもちゃんと引き継がれています。
ビールを飲んでいた親父のイメージはあまりなく、常に日本酒それも熱燗というよりコップ酒のイメージが圧倒的です。つまみは昔から「鯨ベーコン」がとにかく好きで、このつまみが食卓に並んでいないと機嫌が悪いぐらいです。日本酒を飲んで、鯨ベーコンをクチャクチャ噛みながら「南氷洋で巨大なクジラと格闘したこと」を毎回同じように語ります。
煙草は缶ピース。晩年は「ショートホープ」に替えたみたいですが、私のイメージは缶から出した両切りのピースをトントンとたたいてから、煙草を根元まで吸うのが親父でした。

「早くお前も酒が飲めるようにならないかなぁ~」と言っていた親父も息子と酒を呑むのが夢だったのでしょう。私も、高校生だったらちょっと先走って付き合ったかもしれませんが、流石に中学生では一緒に飲むのは残念ながら無理でした。

親父が亡くなったのは私は中3の時、いろいろとちょっとここには書けないことがあり、最期は残念ながら一人で亡くなっていたのを数日後に発見される… という悲惨な最期でした。

だからでしょうか… 私が見る「親父の夢」はいつも同じパターンです。
「親父はどこかで生きていて」「死んで以来、久しぶりに出会う」「今の世の中の動きを知らないので、私がいろいろと教えてあげる」というパターンです。
「もう、王選手は引退したんだよ」とか「今は南海ホークスが福岡にいるんだよ」とか「貴乃花の息子が横綱になったんだよ!」など、目を輝かせながら初めて聞くその世の中の動きにビックリしているようです。

でも親父は永遠に49歳… もう今の私の方が年になってしまいました。

親父のお気に入りだった写真です。仏壇の遺影として30年使っていましたが、あまりに色褪せたので3年前、独占していた仏壇に母が入ってきたのを機会に、プロに頼んで復元してもらいました。

恐らく昭和47年頃の写真です。
勿論、長嶋選手・王選手がバリバリの現役だった頃です!
父親写真.bmp.jpg

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