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1992年のロシア(シベリア) [回顧録]


先週は日曜日定例のブログ更新を「ネタ切れ」という理由によりサボってしまいました。
いくら書くことがないとはいえ、このブログを始めた目的(左手で文字を打つ練習&リハビリ)を考えると、このままどんどん先細りになることは絶対に避けなければいけません。
ということで、気を取り直して今週からまた日曜日にはちゃんと一定文字数を投稿していきたいと思います。

いよいよソチオ冬季リンピックが始まりましたね。ということで今日は「冬季オリンピック」について書こうと色々と考えてみましたが、ウインタースポーツにあまり造詣が深くない私なので、冬季オリンピックネタはあんまりありません。
同世代の皆様とほぼ同じだと思いますが、トワエモアの「虹と雪のバラード」で開幕を迎えた1972年の札幌オリンピックで初めて「冬季五輪」の存在を知り、恐らく夏冬通してもう2度と見られないかもしれないジャンプ「日の丸飛行隊」の「金銀銅メダル独占」に熱狂した記憶はあるのですが、それ以上の記憶はあんまりなく、これ以上は筆が進みません。
「では、何を書こう?」といろいろ想いを馳せましたが、「ロシア」というと、私的にはいくつか笑えるエピソードがある20年前のシベリア旅行を懐かしく思い出しました。
なので今日は、(一度しか行ったことがないのですが)その時のシベリア旅行のエピソードについて書いてみたいと思います。

私がロシアのシベリアに行ったのは1992年の5月、前年にソ連(ソビエト連邦)が崩壊し、あの巨大な国は「ロシア」に生まれ変わたものの、まだ国全体が激しい混乱の中にあった時でした。
ゴルバチョフが推進していたぺレストロイカ政策のお陰で、戦後ずっと日本人が訪問できなかった戦後の「シベリヤ抑留兵のお墓参り」がようやく日本人に解禁されたため、今後の墓参団のためにまず(旅行会社の)我々が体験する… ということでの視察&勉強ツアーでした。
でも、当時のロシアのインフラが凄すぎて、残念ながら日本に帰ってからもそんなロシア墓参団の販売には至らなかったのですが… 
その時のロシア(シベリア)旅行のエピソードを、いくつかご紹介します。

1、1週間風呂に入れない!
 私が参加した視察団は新潟発着で8日間の日程でした。訪問地は新潟から直行便があったハバロフスクに加え、シベリアの中心地イルクーツクとチタ、ウランウデという2つの日本人墓地がある田舎町。
ハバロフスクとイルクーツクはそれなりに有名な国際都市で、泊まったのは当時勿論「その都市NO1のホテル」のはずなのですが… 国際都市NO1ホテルでも日本の超安っぽいビジネスホテル以下でした。
バスタブのないシャワーオンリーであることは予想し、覚悟していたのですが、肝心なシャワーも「チョロチョロ…」程度しかお湯が出ないのです。
中にはバスタブがあるホテルもあったのですが、蛇口をひねっても「(錆の色?の)真っ赤な水(お湯ではなく、水)」しか出ずに、とても風呂に入れる状態にはなりません。「きれいなお湯が出るまで我慢比べだっ!」と数時間赤い水を出し続けますが、数時間たっても状況は改善せず結局そのうちに赤い水すら止まってしまいました。
ということで、結局旅行中1週間の間風呂はおろか満足にシャワーも浴びられませんでした。
重い思いをしてスーツケースに数本のミネラルウオーターを持って行ったのですが、これがないと飲み水にも困る晩がある状況でした。

2、3食、メニューが同じ
 ロシアの食事言えば、ピロシキやボルシチなどで、ウォッカと共にそれなりに楽しめるのかなぁ? と楽しみにしていたのですが、この頃のロシアは本当に食糧難の時代で、本当に食べるものが枯渇していたのです。
当然、我々は高いお金を払っているツアー客なわけですから3食キチンと食事は提供されるのですが、当時のシベリアに流通している食材は豚肉とキュウリ(ズッキーニ?)とトマトとパンしかないのでは? と疑うぐらいに食材は豚・キュウリ・トマトの繰り返しです。この3つの食材だけではメニューの幅も広がりようがないようで、朝でも昼でも夜でも、メニューは殆ど変わりません。
旅行2日目にして同じメニューに完全に辟易しました。
「念のため」に持って行ったカップラーメンが早くも旅の前半で無くなりました。

3、逞しいロシア人
 ソ連⇒ロシアの過渡期だったあの頃は、本当に国全体が混乱していたんだろうと思います。職にあぶれたらしい人々は、東南アジアや中国で貧しい幼い子供が物売りをしているのと同じように、ロシアでは大人たちまでがあらゆる場所で露天販売を行っていました。売り物は軍からの横流し品らしい軍服のようなものが中心ですが、片言の日本語で「KGBの帽子」と言って売っています。
「KGBってスパイだよね? 帽子(制服)なんてあるの?」と我々は笑って答えますが、それでも安いのでいくつか買ってお土産にしたら日本のみんなに笑って歓迎された記憶があります。
また、その時もっともたくさん売っていたお土産は「政治家マトリョーシカ人形」。エリツィン人形の中を開けるとゴルバチョフ人形が出てきて、ゴルビーを開けるとブレジネフ、スターリンと続きます。
海外の政治家の人形で、外国人の我々でもみんな知ってて、人形の顔がみんなとてもユニーク… なんていうのは「日本には絶対ないよね!?」と皆でこぞって買ったのを覚えています。

4、移動エピソード1 超暑くて寒い寝台列車
 シベリア鉄道ではありませんが、都市間移動では夜行寝台車を使いました。本物のシベリア鉄道ではないものの雰囲気は味わえたので、我々は(先日お亡くなりになった大瀧詠一さんの)「さらばシベリア鉄道」などを歌いながら大はしゃぎです。
乗車時の午後には5月だというのに気温は35℃を超えており、勿論冷房はないので我々は車掌の制止を振り切って窓を開けていたのですが、夜になるにつれて気温が下がり、持ち込んだ温度計は35℃⇒0℃まで急降下です。
ところがあちこちが古い車両、一度開けた窓は何度やっても閉まってはくれません。車掌は「だから言ったじゃん!」と言いたげな顔をして手伝ってくれますが、結局朝まで窓は開いたまま…
寒さで遂に一睡もできませんでした。

5、移動エピソード2 飛行機が満席で座れない!?
 次の都市移動は飛行機です。「朝6時ホテル出発」と言われていたのに夜中の2時過ぎに突然電話が鳴り「飛行機の時間が早まったので、今から出発します。」とのこと。何とか全員で空港に行き、途中乗車の大きな飛行機に乗ることができたのですが、飛行機は当時海外ではよくある「自由席」であったことに加えて、前の都市から既に乗っている乗客はそのまま席に座っていたので、我々は空席を探すのに一苦労… で、席を探して全員が座る前に、ドアが閉まってすぐに飛行機は離陸して行くのです!
「立ったままの離陸」は初めての経験でした!
その飛行機でもっと驚いたのは… 
ようやく座った後によくよく見ると、大型犬のシベリアンハスキーが1人分の座席に鎮座しているではありませんか!? 我々の座席がなかなか見つからなかったのも、シベリアンハスキーが1席利用しているから?? と疑ってみたものでした。
爆笑したのは離陸後、袋に入った軽食(スナック)を配っていたパーサーが、当然のように犬にもスナックを渡しているのです!!
これには、見知らぬ隣の人と大爆笑してしまいました!

6、移動エピソード3 絶対にロストバゲージしない方法
 飛行機でもう1題。添乗員経験者の我々は、「預けた荷物が届かない」といういわゆる「ロストバゲージ」で苦労したことは必ずあり、海外旅行の(添乗員が)誰もが通る関門のようなものです。
別の中型機での移動の時、スーツケースを持って飛行機の前まで歩いて行き、「スーツケースは自分でここから(飛行機に)入れてください!」とのこと。
当然荷札(クレームタッグ)はなく、到着地では自分たちで飛行機から直接取り出します。
荷物紛失で苦しんだ経験のある我々の間では、「これ、いいなぁ~!」とここだけロシアが好きになりました。

7、異常な物価(為替レート)
 旅行も終盤に差し掛かった頃、ハバロフスクで当時唯一の日本食レストランを楽しみました。日本食レストランらしくメニュー表示は日本円で、巨大なタラバガニの足は「3000円」と日本よりは安いけれどロシアでは?? という価格設定でしたが、主催者が豚とキュウリとトマトだけで我慢してきた我々の苦労に報いるべく振る舞っていただき、満足の宴でした。
翌日の午後、唯一の自由時間に4人で街に出た我々は、「地元のレストランを体験してみよう!」とロシア人向けと思われる地元の海産物レストランへ…
全員ビールを飲み、昨日よりも大きい日本で頼めば3万円はしそうな超巨大なタラバを1パイ頼んで満喫した我々は、請求額を見てポカンとし、その後全員で大爆笑です。
我々への請求額は… 当時の換算レートで日本円に直すと全部で250円!!
ビール4本と巨大なタラバで250円です。
ストイックな我々は、当然のごとく「割り勘」にしました。
そう、「80円通し!」 人生最安値の割り勘でした。
ロシアの通貨ルーブルが大暴落したために、こんな貴重な体験ができたのです。

肝心な抑留兵のお墓については、道なき道を歩いたところなどにあり、墓碑などもなくこんな異国の地で大自然と闘って苦労されて亡くなっていった皆様を偲ぶと、本当に悲しくなるお墓でした。



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私の読書履歴<小学校~高校まで> [回顧録]


先週の金曜日のお昼に、”業界”の大先輩と久しぶりにランチをご一緒しました。
大先輩と知り合ったのは昭和60年頃だったと記憶しています。仕事上のお付き合いから始まり、途中、転勤や担当が変って10年ぐらい全く没交渉の時期もありましたが、2001年に私が海外旅行の商品企画担当になって、久しぶりにお付き合いが復活。以降は大先輩でありながら親しくさせていただいております。通算30年近いお付き合いになりますので、本当に長い付き合いになったものです。(それだけ私も年を取った… のですね!?)
大先輩がリタイアされたのが今から1年ぐらい前だったでしょうか… リタイア後、1年振りではなく大勢いる飲み会でご一緒する機会はあったものの、懐かしの池袋(大先輩の最後の職場は偶然にも私の会社のすぐ裏だったのです!)で昼食をご一緒するのは1年振りだと思います。

ランチをご一緒したのはサンシャインシティの3階にある中華の名店「聘珍樓」。横浜に勤務していたバブル絶頂期には、中華街にある聘珍樓の本店は超値段の高い高級店で、30歳前後の私には高嶺の花の存在だったことを思い出します。でも最近中華は全体的に安くなっているので、特にランチであれば我々も躊躇することなく入ることができるようなお店になっています。
(個人的に「日本の中華料理は高すぎる!」とずっと思っていました。ヨーロッパでもアメリカでも、世界中でどこへ行っても中華料理は「リーズナブルな料理」なのに、何故か日本でだけはいつでも高級料理で、特に中華街などではその傾向が顕著でした。でも最近、ようやく中華街でも大分安くなってきたようで、嬉しい限りです!)

1時間以上、大先輩と積もるよもやま話を楽しませていただきました。大先輩は週に1回は池袋にいつも来ているとのことで、新たな趣味でも発見されてその勉強にでも通っているのかしらなどと想像していましたが、大先輩のが毎週池袋に来る目的は、「本を買うこと」なのだそうです。中でも「安い古本を「ブックオフ」で大量に仕入れて、読書三昧の毎日を送っている…」というお話を伺い、昔は大の読書好きで、今は本を読むことからすっかり離れてしまった私の心の中に、本に対する憧憬がムクムクと蘇って来ると同時に、本を読まなかった自責の気持ちも芽生えてきました。
なので、今日は自分の反省を踏まえて本に対する半生を振り返ってみたいと思います。

小学校時代には、親に薦められた伝記本に夢中になることから、私の本生活はスタートしたことを覚えています。最初は確か大阪万博に行った1970年、翌日大阪城に観光に行った時、当時小学校4年生だった私は、その巨大な大阪城を見て初めて豊臣秀吉という人物を知ることになります。初めて農民から天下を統一した秀吉に興味を持ち、帰京後には学校の図書室に行き、豊臣秀吉の伝記を借りて読んだのが伝記本との出会いだったことを思い出します。その後小学校6年生までは、伝記と日本の歴史(特に戦国時代)に夢中になりました。伝記本は戦国武将から始まり、日本の偉人だけではなくあらゆる子供用の伝記本を貪るように読み漁った記憶があります。
この時代、夢中になった伝記のヒーローと言えば、最大のヒーローは以前にもブログに書きましたがJFK(ジョン・F・ケネディ)でしたが、それ以外に感銘を受けた人は勿論たくさんいます。一例をあげると海外ではナポレオン、シュバイツァー、ライト兄弟、リンカーンなど。日本国内では、野口英世、豊田佐吉、湯川秀樹、源義経など。 
改めて見てみるとなんの関連性もありませんね… 
因みに、日本で人気のある偉人と言えばやっぱり織田信長と坂本龍馬が両巨頭のようですが、私はその時にはどちらもあまり興味は持てませんでした。戦国時代で言えば、やっぱり最初の印象が強烈な豊臣秀吉びいきだったからでしょうか…

中学時代は、何を読んだという強い印象はあまりありません。最初に熱中した星新一の「ショートショート」を思い出す程度です。当時は本より音楽に熱中しており、当時憧れの吉田拓郎の本なども読んだ記憶がありますが、勿論楽しかった記憶は全くありません。ただ、「読むことに意義がある」とだけ思っていたことを覚えています。
中学生時代は、母親の勧めもありとにかく世界の名作をたくさん読んだことを覚えていますが、当時もう子供用の本は恥ずかしくて読めなかったので、大人用の普通の本を読むのですが、正直理解できなかったことが多かったことも事実です。
図書館でも、もう「こども室」には入れませんので戸惑いながらも普通の部屋に入り、イマイチ理解できない本を読むたびに、「見栄なんて張らないで、もっと簡単な方を読みたい!」と思ったことも思い出です。

中3の時には、ドストエフスキーの「罪と罰」を見栄だけで持ち歩いたことを思い出します。読んでもほとんど理解できなかったのですが、当時同級生の女子に「知的な人」と思われたかったためだけに持っていたというのが真相です。でも、当時読んでもほとんど理解できなかったなぁ~ 一応最後までは読んだのですが、筋を含めて全く頭に入っていませんでした。その後、未だに読み返してはいませんので、「読んでいない」と同じことなのかもしれません。
シェークスピアなども読んだことは読みましたが、シェークスピアも結局好きにはなれませんでした。なので、会社に入って初めてシェークスピアの故郷であるイギリスのストラットフォード・アポン・エイボンを訪ねた時も、何ら感動することはありませんでした。英国の田舎の景色としては素晴らしいのですが、シェークスピア作品のバックグラウンドがないので、それ以上の感動を感じることができないためです。
でも、これは他の日本人観光客の多くの方も、同じ状況のようでした。

高校時代、熱中したのは太宰と三島でした。
最初に熱中したのは太宰治。自殺を繰り返しながら女漁りを続けた太宰の半生を知ったことがきっかけです。太宰治と言えば、小学校時代に「走れメロス」で美しい友情を謳った作品を読んだ記憶があり、その作品と彼の辿った人生との間に猛烈な違和感があったために、「どっちが本当の太宰だろう?」と興味を持ったことがきっかけです。
そんなきっかけで太宰の本を読み始めましたが、当時高校生だった私の心情に太宰は何故かピッタリとハマってしまいました。特に人間失格だとか斜陽だとかの、周囲の人に言わせれば「暗いだけ」の作品に憧れ、太宰が入水自殺した玉川上水など、太宰ゆかりの地に行ったこともありました。
(大学に入って、最初の東北旅行の時には、満を持して太宰の故郷である金木の生家である斜陽館にも行きましたし、小説「津軽」に出てくる小泊や蟹田などにも勿論文庫本片手に行きました!)
「走れメロス」などと実際の生きざまとのギャップについては、結局謎のままでした。太宰を語れるほどの超熱狂的な読者でもなく、超熱狂的な読者や評論家がさまざまな説を出しており、その説の多くには納得できる部分もあるので、大作家の人生を前に自説を披歴するような度胸はとてもありません。
でも、あえて言わせてもらうとすれば太宰という不思議な作家は、作風にも躁うつのような波が激しくあったのではないかと思っています。躁期には信じられないような明るい作品を書く反面、「暗い」作風はうつ時期にかかれたものであり、その行きつく先が4回の自殺だったのではないかと… 
あれほど熱狂した太宰作品ですが、今は読み返す気に全くなれません。これも不思議です。

三島との出会いも奇なものでした。三島由紀夫が自殺したのは私が10歳の時。勿論、当時は三島の存在や作品なんて全く知りません。でも、自分史上最もセンセーショナルな自殺事件でしたから、以降三島由紀夫という名前は一生忘れない名前になりました。だからと言って、「その三島の作品を読もう」とはあまり思いませんでした。

高校生時代、当時2人暮らしの母親が私に隠して何かコソコソと本を読んでいます。「何読んでるの?」と聞いても答えを濁して教えてくれません。母親が風呂に入っている時にこっそりと覗くと、三島由紀夫の「仮面の告白」でした。「いつも名作を『読め』と勧める母親には珍しいなぁ~」と思い、内緒でこの文庫本を買い、カバーをしっかりかけて母に隠れて読み始めました。
確かに、高校生の息子には読ませたくない倒錯した性描写などがある作品で、母親が隠したのもむべなるかなと思います。
でも、この作品がきっかけでその後三島作品を読み漁るようになりました。「怖いもの見たさ」のような興味からはじまた乱読でしたが、金閣寺などは本当に貪るように読んだことを思い出します。

成人してからの読書履歴については、次の機会にまた書きたいと思います。
(この後は推理小説や経済小説などが多いのですが…)
でも、今週木曜日からは久しぶりに旅行に行くので、しばらくはその旅行記をレポートする予定にしています。

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2012年(自分的)十大ニュース [回顧録]


昨日から年末年始の休暇に入りましたが、今年も大掃除ができる訳ではないので、昨日は買い物の一日、今日はいつもの日曜日同様リハビリをしてからPCに向かっています。

昨年、大掃除は(年末を避けて)プロに頼もうかとも思ったのですが、結局費用の関係で断念し、窓ガラスの大掃除は夏休みに帰省した息子にアルバイト代を払って、やってもらいました。
まだ若い息子は、安月給は殆どが生活費などで消えていくであろうと思われます。いろいろ欲しいものもあるだろうし、時には買ってあげたいとも思うのですが、23歳の社会人の男として、「ただ単に親から小遣いを貰う…」というのはプライドが許さないと思いますので、家の掃除でのアルバイト代支払というのは、丁度良い小遣いを渡す名目になると思っています。
なので、(次の)家の掃除も次回の息子のアルバイトに取っておこうと思います。

今年もいよいよあと2日。今日のブログは今年一年の総括をしようと思いますが、昨年も大みそかにも同様に「2011年を振り返って」というタイトルで総括のブログを投稿しています。昨年は時期を区切って病状やトピックスを投稿しているのですが、同じような展開になっても面白味がないので、今年は昨年の自分的出来事を十大ニュース風にランク付けしてみたいと思います。

10位:娘の転勤(神戸)
昨年5月に滋賀県に転勤した娘は、今年秋には早くも同じ関西圏の神戸に転勤になり、初めての赴任地の滋賀に娘を訪ねて旅行に行く夢は、儚い幻に終わりました。
でも、来年には娘を訪ねて神戸旅行に行くことは必ず実現させます。
でも住居の移動を伴う転勤なのに、この転勤のペースの早さにはちょっとびっくりです。
この調子だと来年にも関西を卒業して埼玉に凱旋… ってならないかなぁ~??

9位:人間ドック受診とと目の障害
初めて人間ドックを受けたのが10月の終わり、鼻からの内視鏡や各検査の受診は本当にスムーズでしたが、2週間後に送られてきた結果では、思いがけず「視野異常」の指摘を受け、40年以上ぶりに眼科を受診します。
検査の結果、視野異常は2年半前の脳卒中の影響とのことで、良くはならない… とのこと。
多少「緑内障」の傾向があることから、目薬で眼圧を下げる治療を開始。
1か月ほぼ毎日目薬をさす生活を続けた結果、12月末に再訪した眼科では順調に眼圧が下がっていると言われ、ちょっと嬉しくなりました。

8位:スマホの乗り替え
昨年8月に買ったxperiaのアプリ用メモリが著しく乏しかったため、毎回「メモリ不足」の警告が続き、4月ぐらいから悩み続けていました。
結局我慢の限界を超え、ローンの二重支払は辛いものの覚悟を決めて6月に機種変更。世界で今一番売れているスマホ”Galaxy SⅢ”に機種変しました。
結果は大正解! メモリは比較にならないほど大きく、また操作も格段にスムーズになり本当に満足しています。
でも、全く不満がないわけではありません。 贅沢と言えば贅沢な悩みですが…
・やっぱり電池の消耗が早い。常に充電器を持ち歩いている状態
・カメラは全体的にxperiaの方が操作性や出来栄えも全て上!
ということで、次回の旅行にはカメラとしてxperiaも持っていきます。これでカメラも電池問題もクリアできる予定です!

7位:東北旅行で温泉に復活
6月に「大人の休日倶楽部パス」を使って東北へ。花巻の志戸平温泉「志だて」で2年振りに温泉への復活を果たしました。(客室内にあった露天風呂に入浴)
本格的な温泉への復活は8~9月の九州旅行、ここで大浴場にも復帰することができました!

6位:装具のリニューアル
2年前の入院中に作った(足の)装具をずっと使っていましたが、少しヒビが入り始めていることや、万一壊れてしまってからでは仕事(通勤)にも支障が出ることなどから、装具をリニューアルすることを決意。リハビリセンターで診断を受け、役所の承認を貰って新しい装具を作りました。
でも、新しい装具に変えて慣れるまでには、未だに続く予想外の苦労がつきまとっています。新しい装具の不具合で装具士さんの会社を訪ねたのは2回だけですが、装具を変えて歩き方が少し変わったということなのでしょうか…実は未だに痛みと言うか疲労が続いています。
この原因は全くわからずで、少なくとも装具の当たり場所が悪くて当たり場所に痛みが出るような単純なものではありません。(その証拠に以前の装具に戻しても疲労や痛みは同じです。)なので上述の通り装具によって歩行に変化が出た影響なのではないかと思っています。
(毎週、リハビリに来てくれる理学療法士さんも同意見です。)痛みや疲労度にも日によっては全く痛くない日もありすごく痛い日もあります。来年も引き続き様子を見続ける必要がありそうです。
この「装具」の件はWeb検索でヒットする件数が多い(?)ためか、装具関連の投稿記事は毎回非常に「高アクセス」を記録しており、アクセス部門(?)では年間MVPかもしれません!?

5位:九州旅行
病気になって以来初の4泊5日の大旅行でしたが、本当にスムーズで素晴らしい旅行になりました。温泉復活もできましたが、40年来の憧れであった開聞岳に初対面を果たすことができましたし、これも40年来の悲願であった肥薩線乗車とSLの乗車も果たすことができ、本当に満足感1000%でした!
個人的には長崎と指宿で体験したタクシー観光の素晴らしさを再確認。来年以降もタクシー観光を効果的に取り入れたコースつくりを目指します!
知覧の特攻平和会館には、早くも再訪する気マンマンです。

4位:障害年金受給開始
昨年12月に脳卒中発病から1年半が経過し、障害年金の受給資格ができましたので、昨年暮れから申請準備を開始、1月にようやく申請が受理され、4月に障害年金の受給が決定し、早速6月から年金の支給が開始されました。
病気になり会社を長期で休み、昨年は埼玉と池袋の二重生活を余儀なくされ、僅かな貯金を大幅に取り崩す大赤字生活の日々でしたが、この障害年金のお蔭で何とか一息つくことができました。
本当はこの分を少しは貯金に回さなくてはいけないのですが… 何かと物入りで思うように貯金に回せないことが悩みです。来年こそは少しは貯金に回したいと思います。

3位:池袋の家を引き払う
昨年5月から1年間通勤のベースとして借りていた池袋の会社至近のマンションを4月に遂に引き払いました。
「池袋の家」滞在は1年で、毎週3泊の宿泊でしたから合計宿泊数は150泊程度。二重生活で貧乏の極致でしたが、それでも安いところを探しての外食などで、都会生活を満喫しました。思えば東京23区内に住んだのは高校2年の時までだったので、23区内生活は35年振り、山手線の内側に住んだのは自分史上初めてでした。

2位:息子の入院騒動
「慌てた」ことや「焦った」ことで言えば、間違いなく今年NO1の出来事でした。2月1日仕事中に、池袋滞在中の妻から緊急電話が入り、「息子が心筋梗塞の疑いで救急車で順天堂病院に救急搬送!」という第一報を受け、仕事を全て放り投げて順天堂病院へ。
幸い、息子は心筋梗塞ではなく心筋炎という病気でしたが、それでもICUに数日間入院、その後一般病棟に移りましたが10日近く入院、退院後は5年振りに家に戻り2月一杯はほぼ自宅で静養をしていました。
まだ23歳の息子が救急車で救急搬送されるなんて本当にビックリで、もうこんなことは出来れば2度と経験したくない出来事でした。

1位:週5日勤務に復活!
2010年6月、脳卒中で倒れてからの私の仕事への復帰は
2010年10月 退院
2010年11月 週2日勤務開始(11時~4時)
2011年1月 週3日勤務
2011年5月 週4日勤務(池袋ベースで通勤)
と言う流れで、今年最低果たすべきと考えていた目標は
1、自宅からの往復勤務(勤務時間通りの出勤・退社)
2、通常勤務(週5日勤務)
と昨年早くから決めていました。
1月から自宅から往復通勤の練習を始め、3月には産業医から通常勤務復帰の許可を貰い、ようやく4月から通常通りの出勤を開始することができたわけです。
発病以来、1年10か月ぶりの通常勤務でした。
その時から9か月が経過しましたが、お陰様で順調に勤務を続けることができています。

以上、思えば長かったようで短かった1年間でした。色々あったことはありましたが、まぁ順調だった1年だったと思います。

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<1976年8月>長崎旅行の想い出 [回顧録]


暑い日が本当に毎日続いています。
そろそろ真剣に水不足も心配になり始めましたが、個人的にはあと一週間だけは全国的に雨が降らない好天が続いてほしいと切に願っております。
その理由は… 今週木曜日からは、夏休みで待望の九州旅行に出かけるからです!
全ての計画作りも無事に完了、予約が必要なところは全て予約を済ませて、後は明後日火曜日に荷物を取りに来るのを待って、木曜日の出発を待つだけなのです!
今回の最初の訪問地は長崎。長崎に初めて旅行に行ったのは1976年8月のことでしたので、今から36年前の初めての九州一人旅での出来事でした。
なので折角の旅行を前にして、初めての一人旅の想い出を、覚えている限りで綴ってみたいと思います。

1976年と言えば、私が高校に入学した年です。この年の1月に父親が亡くなり、本来は四十九日その他の仏事に息子が参列しないことはあり得ないことなのですが、急逝した父親が眠る墓は福岡で、49日のその日などはまさに高校受験の真っ最中でもあったため、父親の実家と母親が相談した結果、我々親子は不参加となり納骨等は実家にお願いしたようです。

その後何とか高校に合格。春休みに墓参りに行きたかったのですが当時貧乏だった我が家はそんなに何回も福岡に行くお金はありません。春休みの旅行は断念し、初盆の8月まで墓参は我慢していました。

夏休みに入ってからは、中一の夏以来恒例になっている母親の働く弁当会社でのアルバイトにいそしみ、お小遣いを貯めます。この弁当屋、元々は親父の友人が起業した会社で、近隣企業への配達が中心の仕出し弁当屋さんです。当時はコンビニもなくほっかほか弁当などを売る店も皆無だったので、自分で弁当を作らない人はこういう弁当を注文するしか昼食の手段はありません。

弁当屋さんでの中高生アルバイトの一日は
08:00~10:00 弁当箱におかずを詰める作業
10:00~12:00 配達補助 助手席に乗って注文の弁当を配達
12:00~13:00 昼休み 弁当の余りをいただく
13:00~15:00 弁当箱回収補助(当時の弁当箱は固いプラスチック製で、再利用)
15:00~17:00 弁当箱などの清掃(ガラを捨てて、機械に入れ、その後乾かす)
という一日でした。
3年前、本来はアルバイトが許可されない中学1年生時代から両親のコネでアルバイトさせていただいた私は、夏休みほぼ1か月毎日アルバイトをして、中一の時には貰ったアルバイト代でフォークギターを買い、中学2年生の時は演奏した曲を録音するカセットデッキを買ったことを覚えています。何しろ最初の時給が忘れもしない140円。1年の時1か月フルに働いても給料は2万円に届かなかったことを覚えています。

高校1年のこの年はお盆前の約15日間の短期労働でしたが、今回は「何かを買う」という目的ではなく旅行のお小遣い稼ぎが目的です。勿論、初盆への出席がメインでしたから交通費は親から貰ったのですが、「どうせ行くのなら」と寄り道&観光をしたいと思い、初めての旅行のためのアルバイトでした。

出発は初盆行事の3日ぐらい前だったのを覚えています。勿論、仕事を長く抜けられない母親は飛行機で来てその日のうちに飛行機で帰る強行軍日程でしたので、初めての一人旅です。
福岡までの往路での寄り道は京都と甲子園。前年、初めて修学旅行で京都に行き、その魅力に結構感動したことを思いだし、自主研修(班行動)で行けなかった希望地を行こうと計画しました。

アルバイト終了後に東京駅に向かい、夜行列車で京都に向かいました。夜行列車、今考えると先日惜しまれつつ廃止になった「急行銀河」のような気もしますが、記憶が曖昧です。午前中、当時憧れていた「苔寺」に行き、その雰囲気に感動したことを覚えています。(その後苔寺は入場制限が厳しくなり、今や簡単に見られない寺になってしまいました。あの時、行っておいてよかった!)
午後はその名前に憧れていた「哲学の道」へ。当時「哲学の道」には何か見るものがたくさんあるのかと思っていました… 地図を見て哲学の道の方向に細い道を歩いてみますが、一向にそれらしき案内やモニュメントが現れません。
反対から歩いてくる地元民らしき人に
「あの~ 哲学の道ってどっちですか?」
「はぁ? 今歩いているこの道ですが…」
当時から哲学には縁がなかったのでしょうか? 確かに西田幾太郎さんの話は16歳には難しすぎたのかもしれません。
(でもこの道、その後何度か歩いて、その雰囲気は大好きになりました。)

宿泊は京都郊外の「北山ユースホステル。」ユースホステル(YH)初体験の宿泊でした。北山杉の故郷の北山、落ち着いた雰囲気のYHで同じような一人旅のお兄さんお姉さんがたくさんいて何でも話すことができる雰囲気にすっかり魅せられて、以降YHの魅力に取りつかれるきっかけになりました。

翌日は高校野球を見に阪神甲子園球場へ。当時京阪電車最新の「テレビカー」に乗って関西の私鉄の凄さに圧倒されたことを思いだします。
甲子園では当時話題の剛球投手、長崎海星高校の酒井投手を見に行きました。「サッシー」という愛称で呼ばれその後ヤクルトにドラフトされたこの選手、本当に速かった。そのスピードに圧倒されたのを覚えています。

その後夜まで高校野球を見て、夜行列車で福岡に向かいます。翌朝母親と合流し、お盆の行事をこなして東京に帰る母親を見送って親戚宅にお世話になります。でも、子供の頃にはいとこがたくさんいて退屈せずに遊んでくれていましたが、お互いに高校生以上になると相手にもそれなりに都合があり相手をしてくれる人もそんなにはいません。元々いとこは年上が圧倒的に多かったので、皆私なんかの相手をする暇もないようです。

元々九州までの往路を決めていた私ですがお盆行事以降の予定はノープランでした。一応何処に行くかわからないこともあったので、知人に勧められた「北九州ワイド周遊券」を持っていましたので、どっかに行こうと思えば周遊券のエリア内であれば無料で行けるのです。
ついてはこの旅行用に買ったYHのハンドブックを見ながら、とにかく「明日泊まれますか?」という電話をかけてみます。何処でもいいとは思ていたのですが、どうせなら異国情緒が味わえて行ったことがない長崎に行きたいと思い、長崎のYHから電話をかけ始めました。
当時人気のYHの返事は「満員」が多かったのですが、3件目にかけたYHで「う~ん。まあ何とかなるでしょう。但し明日は夕食がありませんが、それでも良ければ…」とのこと。
OKしてくれたYHは忘れもしない「長崎オランダ坂YH」です。

翌日、親戚宅に別れを告げて一路長崎に向かいます。長崎につくと駅前は異常なお祭り騒ぎで超盛り上がりの雰囲気です。近くの人に「今日、何かあるのですか?」と聞くと「今日は精霊流しというお祭りだよ!」とのこと。何と、あのさだまさしの曲で一躍有名になったお祭りの当日というじゃないですか! どうりでYHの宿泊断られると思った…というより、よく前日で予約が取れたものです。

半信半疑で昨日予約を受けてもらったオランダ坂YHに行き、ようやくその事情が呑み込めました。このYHの定員は60名程度らしいのですが、この日の宿泊者は噂によると160名を超えているようです。(つまり、定員の約3倍!)
ロビーで話してくれたその方は、昨日から2段ベッドの真ん中に布団を敷いて寝ているとの話ですが、「今日はその上の空間にハンモックを吊るす予定」とまで言われているようです。
私が案内された部屋は、恐らくオーナー家族の自宅と思われるYHから数分歩いた一般家庭の4畳半で、「ここで4人で寝て下さい。こんな場所いですがいくらお祭りでも10時には帰ってきてね!」と言われます。

同室になった4人と早速意気投合し、精霊流し見学に出発します。さだまさしのイメージではもの悲しいイメージがありますが、「耳栓は必須」と言われるぐらいの凄い爆竹の音で、あの曲のイメージは全くありません。「こんな騒がしいお祭りでも、愛する人を亡くした人にはあんな気持ちになるんだ!?」と不思議な気分にはなりましたが、はじめて長崎を訪れた私には全くその気持ちはありませんでした。1年分の爆竹を1日で使うというパワーと騒音と煙に圧倒されました。
YH本来はアルコール禁止(当時)なのですが、練り歩きを見ながらみんなでビールを飲んだことを思いだします。 高1の私も、勿論いただきました!(もう、時効?)

翌日は、昨日のメンバーと改めて市内観光。大浦天主堂、グラバー園など主要観光地を観光し、午後再び福岡の親戚宅に戻りました。

その旅行ではその後同じように阿蘇山の1泊2日の旅行を楽しみ、その後ブルートレインで東京に戻りますが、帰りの頭の中は、早くも「次の旅行のこと」で一杯でした。
この旅行が、将来旅行業に就職する私の半生を決めた旅行であったと言っても過言ではないと思っています。
そんな想い出を胸に、今週10年振りに長崎の地を踏みます。

「絵はがき」のような坂を登るのを楽しみに…


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ペンフレンドの想い出 [回顧録]


切り替えて全く別の話を書こうと思います。

サンデーモーニングの「喝! あっぱれ!」の時間で、小久保選手の引退の話をやっていました。
小久保選手の略歴の紹介の中で、「和歌山県立星林高校卒業」というものがあり、星林高校で古くてほろ甘い記憶が一つ蘇りました。中学から高校の間6年間(それ以上)やり取りが続いていたペンフレンドの思い出です。
今日は予定を変えてその話を書こうと思います。

非常に恥ずかしながら、ペンフレンドにそして文通に憧れていました。中学校に入ったころです。なので当時の愛読書「中一コース」の「ペンフレンド募集」のコーナーに投稿し、忘れもしない10月号に自分の住所・氏名が掲載されました。中学一年の10月ですから1973年の10月のことです。
コメントはあまり覚えていませんが、「拓郎、陽水が好きなフォークファンです。フォークの好きな女の人手紙下さい。」ぐらいだったと思います。今はWebの時代ですからペンフレンド募集なんてあり得ない時代ですし、個人情報の関係で自分の現住所や本名が雑誌に載るなんてあんまり考えられませんが、当時としてはこれが唯一のペンフレンド募集手段だったと記憶しています。
勿論既に雑誌に名前が載った人に手紙を出す手はありますが、字が決してきれいではなかった私は、手紙を出しても返事を貰える確率が低いと自分で勝手に判断した結果、自分の名前を雑誌に載せてもらうことを選択したのです。

当時、中学生の人気を「中一時代」と完全に二分する「中一コース」に自分の名前が載ったのですから、翌日は私が完全に学校の話題の中心です。
「女の子と文通しようなんて、なんて軟弱な奴だ!」という当時硬派を気取った大半の男子同級生のあざけりを受け、「あんな人と文通なんて…信じられない!」という女子の冷ややかな目を受けてはいましたが、皆それ以上のことは詮索してきません。正直な友人からは「でも文通って、憧れるよね!?」という正直なコメントを受け、「やっぱり、皆心のどこかで異性と文通には興味あるんだ…」 と手紙の到着を楽しみに待っていました。

文通希望の手紙は結局50通ぐらい全国から届いたと思います。近くは隣の中学校の学区域から、遠隔地としては当時は名前だけで全くイメージもない東北や四国からも届きました。
「さて、どれに返事出そうか?」人生初というか「たった一度のモテ期」が突然来たような人生最大の楽しい瞬間を前に、何度も何度も手紙を読み返し、まだ見ぬペンフレンドとの楽しいやリ取を心に描きます。

結局、「ペンフレンドになって下さい。」という返事を出したのはそのうち3人でした。一人は当時住んでいた多摩川の反対岸の神奈川県川崎市の方(因みに私は東京世田谷区在住でした)、もう一人は名古屋の人、そしてもう一人が唯一文通が続いた和歌山市在住のJUNKOさんでした。
ペンフレンドを選ぶ際、字の極端に綺麗な人やあまりに理路整然とした文章を書く人は、何となく釣り合いが取れないような気がして、返事を出す候補から外してしまいました。かといってあまりに字の汚い人や文面意味不明の方にもご遠慮いただきましたので、返事を出した3名というのはそれなりに文面に魅力があり、字などは平均的だった記憶があります。

中一つまり13歳の時ですから、女性とちゃんと付き合った経験がある人はまだほとんどいない頃でした。勿論私も小学校6年生の時の初恋が淡い失恋に終わったばかりの頃で、女性とはまともに口をきいたことも少なく、初デートだってその2年も後の出来事です。なので3人のペンフレンド候補と13歳の「疑似恋愛」をしたかったんだと思います。

当初、一番手紙のやり取りが多かったのは川崎に住む「みっちゃん」でした。手紙の上とは言い結構会話も弾み、個人的には気持ちもそれなりに盛り上がったことを覚えています。勿論ペンフレンドですからお互いの写真交換なんてすることはできませんでしたが、多摩川の対岸なので「その気になれば見に行ける」距離でした。
見に行く(会いに行く)ことも真剣に考えましたが、そのうち手紙が来なくなります。
「何故?」という手紙を2回ほど書きましたが、結局その後一度も返事が来ることもなく、手紙だけの世界でも「失恋」してしまいました。

名古屋の人(この人も偶然みっちゃん)は、正直1回目の手紙と2回目以降の手紙とのギャップが大きく、当時「姉さんでも代筆したんじゃない?」と疑いたくなるくらいの内容で、どうにも返事を出す気になれませんでした。そんなリスクも含めて3人に返事を書いたという部分もあり、失礼ながら「想定内」(勿論、当時そんな言葉は知らない)だったと言えます。

和歌山のJUNKOさんとは当初から等身大で、話題なども大きく盛り上がることがなかったので、逆に文通が長続きした原因かもしれません。名前をローマ字でJUNKOさんと書くのも当時の彼女とのお約束でした。
文通のペースは2カ月に1回ぐらい。つまり今月手紙を出すとすぐには返事が来なくて、その翌月にJUNKOさんから返事が来て、私もすぐには返事を出さずに翌月ぐらいに返事を出す… つまりお互いが負担にならないちょうど良いペースだったように思います。
でもお互い、一度手紙を書きだすとそれなりに長文で、郵便料金を超過して郵便局から追加料金を取られることも少なくありませんでした。

同級生ですから同じタイミングで高校に進学。彼女の進んだ高校が小久保選手の母校である県立星林高校でした。当時都内近辺以外の高校は甲子園に出る学校の名前しか知らず、和歌山県と言えば箕島高校以外の知識は皆無でした。県庁所在地和歌山市内にある県立高校で、それなりにレベルが高い… という知識は、後になって知ったことです。

高校時代も文通は続きました。相変わらず2か月に一回のペースから、年に4回ぐらいに頻度は落ちましたが、それでもやり取りは続きました。一度「カセットテープ文通」を提案し、60分テープ一杯にメッセージとギターでの自作の曲を詰め込んで送ったこともありました。彼女からも返事は届きましたが、言葉を聞いているとまぎれもない「関西弁」で喋る不思議なJUNKOさんがそこにいて、そのギャップに愕然としたこともありました。
(高校生の当時、和歌山県のイメージに関西はつながらず、不思議な気持ちで一杯になったことを思い出します。和歌山は関西ではない。和歌山は和歌山だ… と思っていましたので。)

高校を卒業し、彼女は地元の公務員になり私は大学に進学。大学生になってからも頻度は落ちたものの年に数2~3回のペースでやり取りは続き、会社が決まって、仙台に赴任して、と節目節目には手紙を出して、返事を貰ったことを覚えています。

最後に手紙を出したのは1985年12月。何故正確に覚えているかというと「結婚しました。」という手紙が、12年間の疑似恋愛に付き合ってくれたJUNKOさんへの最後の手紙だったからです。

「結婚おめでとう。お幸せに!」という返事以来、彼女との手紙のやり取りはありません。今でも偶然の再会を祈って、Facebookなどで時折彼女の名前を検索してみますが、苗字が変わっているからか、ヒットすることはありません。

中学生・高校生時代の楽しい想い出、今でもこの曲を聴くと彼女のことを思い出します。
一度、チケット送っとけばよかった!?


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父親の思い出 [回顧録]


今週も通常通り週5日の通常勤務をこなしました。
そのためやっぱり疲労があったのか、土曜日は本当にぼ~っとしてのんびり過ごしました。

ところで今週、10年振りぐらいに父親の夢を見ました。親父が死んでから既に35年、昔(亡くなった直後)は親父の登場する夢を頻繁に見ましたが、この20年前ぐらいはめったに見ることは無くなりました。
久しぶりに夢を見て考えると、「そういえば俺の親父、何の文章にも何にも残っていないな。このまま私が死んでしまうと、親父がこの世に生存した証明というか記録が何にもないなぁ… じゃぁ、ブログにでも親父のことを書いて、親父がこの世に生きた証明でもとりあえず残しておくか!」と、他愛もないことを考えました。
ということで、今日はいつも以上に退屈なネタになりますが、私の親父のことを書いてみたいと思います。

親父が生まれたのは昭和の最初の年、昭和2年です。(昭和元年は、前大正天皇が12月末に崩御し、1週間ぐらいしかなかったらしいので…)1927年ですから85年前になります。誕生日は11月25日になっていますが、本人によると「本当は10月生まれらしいのだが、親父(つまり私の祖父ー勿論明治生まれ!-)が出生届を出すのを忘れていて、11月生まれになったのだそうです。今では出生届を出し忘れたとしても、生まれた日を1ケ月も偽るなんていうのはあり得ないと思いますが、まだ85年前はそんなことも許されたのでしょうか? ちょっと不思議な気もします。

親父の名前は照明と書いて「てるあき」と読みます。子供時代は「電球みたいで変な名前?」と思っていましたが、その後「意外といい名前だなぁ~」と思うようになりました。皆からは「テルちゃん」と呼ばれていました。因みに両親(私にとっての祖父母)の名前は明治生まれなのに「秀樹とイヨ」 昭和後半のアイドルの名前と同じで意外とモダンだったりします。

生まれたのは福岡市内で、根っからの九州男児です。私も幼少時代、親父の実家には何度か遊びに行きましたが、今では既に人手に渡っており、場所も定かではありません。
数年前、知人の結婚式で福岡に行った際、時間があったので住所を頼りにそのあたりを歩いてみましたが、最後に訪れたのが小学校5年生の昭和46年… 残念ながら覚えている街並みは一つもありませんでした。

親父は5人兄弟の3番目。男が3人続いて、下は2名とも女の兄弟なので、真ん中と言いながら兄と妹しかいません。親父の幼少時代のエピソードは語られたのかもしれませんが、正直殆ど覚えていません。聞いていた私が中学生までなので、あんまり興味のなかったことは覚えなかったのでしょうか…

親父の実家は、昔は「黒田節」で有名な九州の黒田藩の武士だったとのことで、当時はかなり裕福な旧家だったのだそうです。古くから長男の仕事は「家長」というだけで、特に仕事はしていなくても生活できたらしく、その程度のお金はあったのでしょう。なので親父の育った家(昔は本家ーホンヤーと言っていました)は私が知る限り大変大きな家でした。今覚えているだけでも1階だけでも最大20畳ぐらいの客間を筆頭に、部屋は10以上はあったはずです。兄家族などは私が泊りに行っても決して入ることのない家族だけのスペースで生活していましたので、部屋は全部で20以上はあったのでしょう。(2階を入れるともっと??)ただ、そんな生活は長く続くはずはなく、親父の兄貴の代で残念ながらその本屋は人手に渡ってしまったそうです。

中学校を出た親父は、勉強があまり好きでなかったこともあり、進学をしなかったとのことです。このことを後日親父は大変後悔しており、「俺は学歴がなくて苦労した。だから息子(つまり私)にはこんなみじめな思いをさせたくない。だから俺の夢は息子を東大に入れることだ!」と酔っぱらうと声高に言っていたのが思い出です。
親父のたった一つの夢は当然叶えられませんでした… 「申し訳なかった」と今でも時折思ってしまうことがあります。

中学を出た親父はこれといった定職につくこともなくブラブラとしていたようです。一応労働はしていたようなのですが、「これをしていた」という仕事はあまり聞いたことがありません。戦争中は中国東北部(旧満州)最北の都市ハルピンにいっていたのが自慢でしたが、ハルピンでもアルバイト程度の労働をしていたのでしょうか??
また、終戦をハルピンで迎えていれば「命からがら逃げて帰ってきたこと」や「捕虜になって」いたはずで、その思い出などを絶対私は聞いたことがあったのでしょうが、帰ってきた時のエピソードは殆ど聞いたことはありません。つまり、終戦前には福岡に帰って来たのかもしれません。

召集令状が来る20歳直前に終戦を迎えます。この頃の親父のことはあまり思い出話にも出てきません。25歳ぐらいの時に、一旗上げようと思ったのか、それとも故郷を出たい何らかの理由があったのかは不明ですが、東京に出てくることになります。
この前後の最大の自慢&思い出話は「捕鯨船に乗って南氷洋に行ったこと」です。この話は昔の一番の自慢話で、本当に何度も何度も聞きました。
一回の航海は半年ぐらいらしく、恐らく親父は1回だけ船に乗っただけなのでしょうが、この船で「大きなクジラと格闘した話」が酔った親父の十八番でした。

その後はタクシーの運転手をしていたようです。あまり誇るものがなかった私の親父ですが、何故か車の運転だけはメチャクチャ上手く、私も親父の車に随分乗りましたが、未だに記憶に残る安全運転でした。また、当然カーナビのない時代ですが親父の都内の道の知識も抜群だったのは、その頃から身についたものでしょう。

32歳の時に見合いで母親と結婚。今思い出しましたが、結婚記念日は昨日、6月2日でした!(これ、本当に無意識の偶然です。だって結婚記念日なんてもう10年以上忘れていたし)
母の晩年、「実は親父はバツイチだった。昔エミコさんという奥さんがいたらしい。」という昔話を母親からカミングアウトされた記憶があります。でも母の没後、相続の関係で親父の除籍謄本を福岡から取り寄せてじっくりと見ましたが、戸籍によると父も母も初婚で、キレイな戸籍でした。真偽のほどは謎のままです。

翌年昭和35年に長男(つまり私)が生まれます。3年後には次男が生まれますが、未熟児で生まれてきたため、名前を付ける前に生後4時間で亡くなりました。この弟が生きていれば、恐らく両親(と私)の人生も大きく変わっていたことは間違いないと思います。

私の幼少期からの親父は、胃潰瘍を患うようになり、定期的に入退院を繰り返すようになります。当時「ピロリ菌」が発見されていれば、こんなに胃潰瘍で苦しむこともなかったと思うのですが… 半年~1年働いて、胃潰瘍が悪くなり数か月入院 という状況の繰り返しだったようです。
電車好きの私は幼少時代、電車に乗って新宿に行くのが楽しみでした。小学校低学年時代、100円玉1枚を握りしめて電車に乗るのですが、100円の内訳は
祖師ヶ谷大蔵~新宿 片道20円(子供料金)×2
新宿サブナード地下街での豪華ソフトクリーム 60円 で合計100円です。
当時ラーメン一杯60円の頃でしたから、贅沢なソフトクリームでした。
その頃の新宿に行く目的 =「入院中の親父の見舞」 だったのです。

そんな状況だったので一つの仕事をあまり長く出来なかった親父ですが、一番長く数年続いたのが、今はもうない国護ゴムという会社の「お抱え運転手」でした。
親父は毎朝ピカピカに磨いた当時の高級車「セドリック」で社長を迎えに行き、夜は社長を送り届けて自宅にセドリックで帰ってきます。
週末は、本当は禁止なのでしょうが高級車セドリックで家族でドライブを楽しんだことも数々ありました。黒塗りで真っ白なシートカバーの高級車にてドライブ。
束の間の「セレブ気分」を満喫した瞬間でした。

そんな親父は本当に酒が大好きで、胃潰瘍で医者に酒を止められていたにも関わらず、家族の眼を盗んでは日本酒を飲むような人でした。結局そのお酒が人生を縮めてしまったのでしょう。その酒好きの趣向だけは子供にも孫にもちゃんと引き継がれています。
ビールを飲んでいた親父のイメージはあまりなく、常に日本酒それも熱燗というよりコップ酒のイメージが圧倒的です。つまみは昔から「鯨ベーコン」がとにかく好きで、このつまみが食卓に並んでいないと機嫌が悪いぐらいです。日本酒を飲んで、鯨ベーコンをクチャクチャ噛みながら「南氷洋で巨大なクジラと格闘したこと」を毎回同じように語ります。
煙草は缶ピース。晩年は「ショートホープ」に替えたみたいですが、私のイメージは缶から出した両切りのピースをトントンとたたいてから、煙草を根元まで吸うのが親父でした。

「早くお前も酒が飲めるようにならないかなぁ~」と言っていた親父も息子と酒を呑むのが夢だったのでしょう。私も、高校生だったらちょっと先走って付き合ったかもしれませんが、流石に中学生では一緒に飲むのは残念ながら無理でした。

親父が亡くなったのは私は中3の時、いろいろとちょっとここには書けないことがあり、最期は残念ながら一人で亡くなっていたのを数日後に発見される… という悲惨な最期でした。

だからでしょうか… 私が見る「親父の夢」はいつも同じパターンです。
「親父はどこかで生きていて」「死んで以来、久しぶりに出会う」「今の世の中の動きを知らないので、私がいろいろと教えてあげる」というパターンです。
「もう、王選手は引退したんだよ」とか「今は南海ホークスが福岡にいるんだよ」とか「貴乃花の息子が横綱になったんだよ!」など、目を輝かせながら初めて聞くその世の中の動きにビックリしているようです。

でも親父は永遠に49歳… もう今の私の方が年になってしまいました。

親父のお気に入りだった写真です。仏壇の遺影として30年使っていましたが、あまりに色褪せたので3年前、独占していた仏壇に母が入ってきたのを機会に、プロに頼んで復元してもらいました。

恐らく昭和47年頃の写真です。
勿論、長嶋選手・王選手がバリバリの現役だった頃です!
父親写真.bmp.jpg

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東北旅行記<その6:総括> [回顧録]


昨日まで5回にわたって旅行記を書きました。
私自身、1年以上ぶりの倒れて初めての旅行でしたが、超充実の3泊4日の旅。いろいろと慣れない行動もあったけれど、本当にいい旅でした。「自分では現在これができて、まだあれができない」ということを認識するのにも勉強になる旅でした。
以下、旅の総括を書きます。

・日程
 3泊4日ではありましたが、3泊目は慣れ親しんだ妻の実家に宿泊しましたので、実質の旅行は2泊3日と3泊4日の中間ぐらいの疲れ方でした。翌日月曜日、休みなしでいきなり仕事に行くことが少々不安でしたが、結果的には最終日の妻の実家泊は大正解だったと言えるでしょう。日程的には病み上がりにはちょうど良かったと言えます。

・旅費
 これが目的で夫婦で加入した「大人の休日倶楽部パス」。@15,000×2名分でこれだけ乗ったほぼすべてのJR券代がカバーできました! 加入しておいてよかった! 因みに弘前まで普通にJRで切符を買うと約16,000円、往復だと32,000円です。つまり半額以下で旅行に行けた計算になります。
「来年もこのパスで旅行に行くぞぉ~!」

・妻
 私が倒れる前には、病気をしたりどちらかというと私が妻の面倒を見ていました。妻は数年前に1カ月以上入院したこともあり、退院後も週末にすべての買い物を私がして、1週間の夕食のメニューもすべて私が作り、家計簿も私がつけていました。
ところが私が倒れてからは、入院中から退院そして今まで私の面倒をすべて妻に見てもらい、1年以上本当に献身的な看病をしていただきました。そういった意味では本当に頭が上がりません。その妻が一番会いたがっていた弘前在住の友人に逢えて、25年ぶりにゆっくり話ができたことは本当に良かったと思います。妻も本当に嬉しそうで本当に久しぶりに晴れやかな顔をしていました。少しだけ恩返しできたと思うので、何よりでした。妻の母親とも1年以上逢えていなかったものの、久しぶりに逢えて元気そうでしたので何よりでした。

・ホテル
 1泊目は秋田駅前のシティホテル、2泊目は弘前駅前のビジネスホテルでした。どちらも自社のネットで予約したものですが、どちらも「喫煙ツイン」で予約されていたのにはちょっと参りました。最近は禁煙ルームの方から売り切れ、喫煙または指定なしの部屋しか空いていないことが多くあります。ホテル業界もより禁煙ルームの割合を高めることを望みます。
1泊目のホテル「リッチモンドホテル秋田」は駅からはちょっと距離はあったけど、最新の設備のいいホテルでした。
ホテルに泊まるのに、私が一番問題だと思っていたのは、何と言っても「風呂」。手すりのない浴槽への出入りは厳しい部分がありましたが、このホテルはシティホテルのように浴槽が広く、浴槽のふちが浅かったので、出入りに妻に見守りだけしてもらって何とか風呂に入ることができました。病院・自宅以外では本当に久しぶりの入浴を楽しむことができました。
 2泊目の「ルートイン弘前駅前」は典型的なビジネスホテルですが、ビジネスホテルとしては全体的に上質のホテルでした。1泊目と違って部屋は狭目でしたが、ベッドでTVを見てくつろぐには全く問題ありません。このホテルの風呂は典型的なビジネスホテル仕様。浴槽が狭くふちが高いので、風呂に入るのを断念。妻に手伝ってもらって浴槽のふちを何とかまたぎ、風呂の中でシャワーを浴びます。手すりはありませんがカーテンレールにつかまって何とか風呂の中に入ることができたので、湯を張れば風呂にも入れたことになる訳ですが…
このホテルで何と言っても良かったのは朝食。「朝食無料」を謳っているビジネスホテルは多くありますが、多くがパンとコーヒーだけなどの簡単なもの。それに比べてこのホテルはパンも和食も選べる本格的なビュッフェスタイルで、私は和食のおかずにパンという贅沢な朝食を味わうことができました。
贅沢を言えば朝食会場が狭いこと! 朝、7時半頃にはバイキングで取っても坐る席がありませんでした。

・歩き
 出発日、自宅駅の前で見事に転倒する不安なスタートでしたが、その後は何とか転倒せずに無事に歩くことができました。これはやはり神様からの「注意して旅行しなさい」という無言のメッセージだったのでしょう。
その後は問題なく歩くことができたのですが、やっぱり乗り物の階段には何となくプレッシャーを感じました。特に特急列車やリゾートしらかみにあんなに段差があることに、改めて驚かされました。もう少し、用心しなければいけないようです。
歩きできつかったのは十二湖の散策路、行けないことはなかったのだろうと思いますが、やっぱり手摺がない階段は結構プレッシャーがかかります。今後は是非手摺の設置を求める活動に協力してゆこうと思います。
岩木山の日にも結構厳しい場面がありました。まず観光バスの乗降りの階段がこんなにきついことに初めて気が付きました。またリフトに乗るときのプレッシャーは相当でした。でもこのリフトはバリアフリーに対応するというより、私がもっとリハビリして元気にならなければなりませんね。岩木山の登山口も同じ。この登山口に手すりを付けてなんてことを言うつもりはありません! 早く直して今度こそあと一合にチャレンジしたいと思います。

・食事
 以前のようなグルメ旅行ではありませんので、食事はそれなりではありました。酒田では海鮮丼を堪能、夕食は稲庭うどん一杯で、せいぜい豪華に天ぷらを付けただけで満足するのですから、グルメだった私の食も変わったものです。翌日以降の昼食も観光優先で簡単なもので済ませていますし… 兎に角酒を飲まなくなって、こんなにも食事代がかからないということが本当に不思議です。
でも、念願だったB級グルメ「黒石つゆ焼きそば」が食べられて大満足です!!

これで9月前半の旅行記は終わりにします。次回からは通常のブログに戻ることにします。

最後に、東北のとびっきりの青空を!
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東北旅行記<その5:岩木山へ> [回顧録]


早くも10月になってしまいました。
10月になったのに、まだ9月前半の旅行記が書き終わっていません。
今日で終わらせて、そろそろ次の話題に行きたいと思います。

9月10日(土)

昨日10時過ぎまで友人との二十数年振りとの再会を満喫した妻は、帰着後も興奮状態が続きました。夕方友人と出会ってから弘前城を案内してもらい、夕食を食べてから、津軽らしいと言えば最高に津軽らしい「津軽三味線」のライブハウスに案内され、その後友人の家にお邪魔… 考えられる弘前の「フルコース」を再会した友人にご案内いただいたことになります。

興奮冷めやらぬ翌日朝、とりあえずホテルが無料でサービスしてくれる朝食(無料の割には意外と美味しい、しっかりとした和食バイキングでした!)を食べながら「今日はどこに行こうか」と妻と相談します。
本当は妻が以前から見たがっていた弘前城址を散策し、そのそばにある「弘前ねぷた博物館」でも散策すれば2時半ぐらいまではすぐに時間が経ってしまうだろう… とこの日の午前中のみノープランでした。でも昨日、妻が念願の弘前城を堪能してしまったので、弘前城址を散歩してねぷた博物館に行くプランも成り立たなくなります。

でもホテルにいても仕方がないので、とりあえず8時過ぎには駅に行ってロッカーに荷物を預け、観光体制を整えます。空を見上げるとこれ以上ない晴天、天気予報では今日の午後には天気が崩れるそうですが、午前中はこれ以上ない晴天予報です。津軽のシンボル岩木山もくっきりと山頂を見せています。

「そうだ、岩木山って、登れるのかなぁ~?」と今回の旅で岩木山に登ることを初めて思いつきます。まだ8時を過ぎたばかりなので観光関連の施設が全く開いていませんので、それからは、スマホを駆使してネットと格闘し、岩木山登山情報を集めます。結果、「岩木山麓までは路線バスがあり」「そこから8合目までは登山バスがあり」「8合目まで上がれるが、そこから9合目まではリフトがある」ことがわかりました。でもこれだけ行っても今日は仙台の妻の実家に行かなくてはならず、弘前発2時半の普通列車に乗り、新青森発の「はやて」の指定券が取ってありますので、2時半までに弘前駅に帰ってこなければなりません。間に合わなければせっかくの登山プランも台無しです。

続けてネットで検索すると、「9時駅発に路線バスがあり」「8合目行きのバスに接続がよく」「8合目では1時間強の時間が取れ」「そのまま下山すると1時半頃に駅に着く路線バスに接続できる」ことが判りました。続けて「山頂往復には特別乗車券があり、往復2500円で行ける。」こと、そして「その乗車券は8:45にオープンする弘南バスの案内所で売っている。」ことまでが8時40分ごろまでにネット情報で判明、まさにスマホ様様です。急遽「岩木山に登ろう!」と意見が一致し、弘南バスの案内所にオープンと同時に並び、無事に5000円也で2人分の乗車券を確保します。
 
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9時に予定通りごく普通の路線バスが駅に到着、山頂を目指す観光客と路線バスの普通の生活者とを混載したバスは、まずは市内を路線バスとして走ります。「土手町」などの30年ぶりに聞く懐かし地名を聞き、弘前城址をかすめて私に弘前の市内観光をサービスしてくれた後、バスは岩木山を目指して、徐々に速度を上げていきます。車窓から見る岩木山の姿も、少しずつ大きくなっていきます。
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途中岩木山神社などを見て、路線バスの料金が1000円を超えた頃に乗換駅の嶽温泉駅に到着。登山口だけあり、もう岩木山はすぐ近くに見えます。
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時間通りに到着した登山バスは、弘南バスの観光バスタイプの車両。以前添乗員もやっていた頃は軽やかにバスに昇り降りしていた私ですが、正直今は観光バスタイプの狭くて急な階段を昇降するのはかなりしんどい作業でした。

スカイラインのつづら折りの坂道をバスは軽快に登ってゆき、よっやく岩木山8合目に到着します。
まずリフトの乗り場へいき、所要時間を確認、1時間の帰りのバスの時間で十分に往復できることを確認して、恐らく冬はスキーヤーで賑わうであろうリフトに往復500円(これもパスで割引!)を払って早速乗り込みます。
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左手一本でのリフトは、少々怖くもありましたが、恐らく反対側の眺めは最高だろうなぁ~と思いながら、何とか10分の往路を楽しむことができました。
リフトの頂上は9合目、ここから1合歩けば頂上に辿り着けるのですが、今の私には無理なことです。
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頂上はもうすぐそこですが… 次の楽しみに取っておくことにします。
反対側には白神山地と日本海が… 昨日乗った五能線も見えるはずですが…
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9合目はリフトの終点と登山道路だけで、他には何もありません。登山が出来ない私は、山頂を満喫した後、再びリフトにて8合目まで降りました。
8合目には売店などもあり、再度山の姿を目に焼き付けた後、11時半には再び観光バスの登山バスに何とか乗り込み、嶽温泉を目指します。

本来は嶽温泉で入浴を楽しんでのんびりしたいところですが、まだ風呂に入れない(というか知らない風呂には恐怖感がある)上に、今日中に仙台へ行かなければならない身の上ですので、風呂は諦めて土産屋でトウモロコシの焼いたのを買い、妻と食べるだけで温泉街のぶらぶら歩きを我慢し、再び路線バスにて弘前駅へ向かいます。

弘前駅到着は予定通り1時半。駅ビルのミスドを昼食にした後、駅ビルで会社への土産を購入、手が不自由な私は宅急便で会社宛に送ります。
その後このたび初めての各駅停車で弘前を出て新青森へ、新青森からは「はやて」で仙台へ向かいます。

仙台は妻の実家で、特に旅行記で書くようなことはありませんが、旅行記の総括を明日書こうと思います。

 

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東北旅行記<その4:黒石つゆやきそば> [回顧録]


旅行記の続きを書こうと思います。

9月9日(金) その2

五能線の「リゾートしらかみ」は16時少し前に予定通り終点の弘前に到着しました。途中十二湖の観光途中下車を挟んだ列車の旅は、30年ぶりに「鉄ちゃん」に」戻った私を大いに満足させてくれました。
これで私の今日のハイライトは終わり、これからは25年ぶりに友達と再会する妻のハイライトの時間です。

とりあえずホテルにチェックイン。今日のホテルは弘前の駅前に立つビジネスホテル、「ルートイン弘前駅前」です。まずはホテルにチェックインし、荷物を置きます。
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妻は既に気もそぞろ、荷物を置いたら早速携帯で友人に電話し、「行ってきま~す!」とばかりにいくら近所に住んでいるとはいえ、ホテルに迎えに来てくれるという友人が、こんなに早く来れるわけないのに… と思うぐらいに早くからロビーに出て待機するようです。

この旅で初めて一人になった私は、早速この旅唯一の短い一人旅を満喫することにします。妻より15分ほど遅れてロビーへ降りましたが、既に妻の姿はありません。無事に25年ぶりの再会、出来たようです。

今回の唯一の一人旅の行先ですが、懐かしの弘前の街は翌日妻と観光する予定にしていましたので、この時間を使って隣町黒石に行ってみようと思っていました。目的はいくつかありますが、黒石には一度も行ったことがなかったことと、元鉄ちゃんとしては弘南鉄道に乗ってみたかったこと、風情あるという黒石の「こみせ通り」を歩いてみたかったこと… そして最大の目的は黒石で最近注目を集めているB級グルメ、「黒石つゆやきそば」を賞味することでした。

早速、JR弘前駅の裏側にある弘南鉄道の弘前駅へ。いつもはSuicaなので、久しぶりに自動販売機で終点の黒石までの切符を購入します。
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弘前から黒石までは約30分、30分に1本の運行です。やっぱり一番のお客さんは高校生らしく、列車を待つ人も高校生が多くいました。また、駅名にも高校名の着いた駅名が多く、学生の積極的な乗降りが予想できます。
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乗り込んだ列車は、何となく懐かしい2両編成のロングシートの列車です。何気なく社内の広告を眺めていると吊革の広告が「東急のれん街」。「何処にあるんだろう?」と考えながら眺めていましたが、よくよく見ると「渋谷」の文字が…
ということは… この列車、東急かどっかのお古で、広告は差し替えても、吊革の差し替えはコストがかかるので、そのまま走らせている電車のようです。確かに風情としては昔親戚の家に行く時によく乗った「目蒲線」の風情です。「何となく懐かしい。」のは恐らくそのせいなのでしょう。

黒石駅到着は5時半過ぎ。少しずつ夕暮れが早くなってきたこの頃なので、もう夕景です。
人通りの淋しい駅前通りをとぼとぼと歩き、風情のある中町こみせ通りまで20分ぐらいのんびりと歩きます。(普通の人なら10~15分で歩けるでしょう。)

こみせ通りは雪対策のための「木造のアーケード」がある商店街。頑丈な作りの昔ながらの店が多くありますが人通りはなく店も結構閉まっている感じです。
観光用の「こみせ駅」という商店がありましたが、お客はおらずに店じまいにかかっています。この店でもつゆ焼きそばを出しているようですが、もう終わっているのかレストランの雰囲気はありません。
「つゆ焼きそば」について情報収集はしていたものの、「どの店で食べる」ことははっきり決めていなかったので、この人通りのなさと現地の情報の少なさに大いに不安になり、閉まりかけた「こみせ駅」の店員さんをつかまえて、「今からつゆ焼きそばを食べられるお店を教えてください。」とお店を紹介していただきます。

いくつかの店の情報を親切に教えてくれましたが、「どの店が美味しいですか?」という質問は観光産業に従事する方のタブーとして答えてくれそうにありません。私もあえて聞かずにお紹介されたお店の中で、近くて好意的な書き込みがあった「蔵よし」を選択して玄関をくぐりました。

入った店は料亭の様な作り。すべて仕切りのある個室の作りのお店です。6時過ぎなのでまだお客さんは誰もいないようですが、「つゆ焼きそば」だけでも勿論OKで、早速個室に案内され、料理の到着を待ちます。

割と早く料理が到着し、仲居さんからは「まず、スープを飲んでください。」との案内が。
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スープを飲むと、この味は普通の「日本そば」のような風味です。海老や舞茸の天ぷらも乗っており、「天ぷらそば」と言われても違和感なく食せます。
食べ始めると、ソース味の焼きそばのソースがかつおだしのつゆに滲み込みはじめるようで、だんだんスープの味が変ってきます。仲居さん曰く「2つの味が楽しめる」つゆ焼きそばの2つ目の味です。
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これ以上の味の感想は、「不思議な味」と表現させていただけます。決してまずい訳ではありませんが、上手い表現が見つかりません。やっぱり、是非ご自身で体験してください。
因みに、同じ黒石でもつゆ焼きそばの味は店によってかなり違うようで、私の入った店は「正統派日本そば風」なのだそうです。少なくとも、何年後かに別の店の味に再チャレンジをしてみたくなる味ではありました。

夕食後、再び黒石から弘南鉄道に揺られ、弘前に戻りました。
コンビニで飲物を買ってホテルに帰ったのは8時半頃、妻は友人との感動的な再会を堪能し、10時過ぎにようやくホテルに戻ってきました。

本当に妻も私も満喫した2日目でした。



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東北旅行記<その3:五能線> [回顧録]


昨日木曜日の仕事の帰りに、一昨日の台風での外出と夜10時過ぎの時ならぬ山手線のラッシュで、文字通り「死にそうな」体験をしたことをせっせとブログに綴っていたのですが、内容豊富で帰りの電車が途中遅れていつもより20分近く時間があったのにもかかわらず、内容はとってもこの時間だけでは書ききれず、中断して家に帰って晩飯後に続きを投稿しようと思ったのですが… 信じられないことに夕食後スマホの入力データが不思議ときれいに消えてしまっていました!
 
「投稿済み」にも「ゴミ箱」にもなければ、勿論下書きにもどこにもありません。1時間以上必死に探しましたが、遂に諦めることにしました。(本当はまだ諦めきれませんが…)
やっぱりスマホ恐るべし! です。 まだまだ私にとっては巨大なブラックボックスです。
この恐怖体験はいずれ書きたいとは思いますが、自宅のPCに向かうとまずは旅行記の完成です。ということで、続きを書きます。

2日目:9月9日

この日も半袖でちょうど良い気候で絶好の旅行日和の1日です。今日は夕方までは元鉄道少年の私の旅行のハイライト五能線の旅です。
早々に起きだしすぐに出発準備をして、8時過ぎの発車の列車に乗る前に朝食と思い駅に向かいましたが、駅前なのにマックもドトールも全くありません。マックはスマホの公式アプリで最寄りのマックを表示してくれる機能があるので早速試してみましたが、秋田駅周辺にはマックを全く表示せず、ひたすら車で30分ぐらいかかりそうな郊外店をナビします。県庁所在地の駅前なのに…
諦めて近くにあったコンビニでおにぎり買って車内で食べようと移動していたら、ようやく駅近くにロッテリアを発見! 無事に朝食にありつくことができました。

五能線直通の列車は、JRが最近力を入れている観光地の路線を走るリゾートトレインの走りともいえる「リゾートしらかみ」。一か月前の発売日になんとか買った、あの指定券です。
(その時の顛末はこちらから)
鉄道ファンとしては、発車間際に乗り込むのではなく、入線からしっかりと列車にご対面したいと思い、発車30分以上前からホームにスタンバイです。
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まず最初の「リゾートしらかみ」は3つある編成のうちにの「くまげら」編成。昨日乗った新幹線よりも在来線特急よりもスペースはとにかく広く、普段乗っているグリーン車よりもまだ広い本当に観光用の快適な列車です。これで乗車券+500円強の座席指定券で乗れるのですから、これは本当にお得と言えます。

秋田から東能代まで約1時間は羽越本線を走ります。東能代からはいよいよ五能線に入ります。進行方向が逆になり、我々のAB席側が待望の海側に変ります。でも反対側のCDにも人がいっぱい… この日もこの列車は反対側も含めて満席だそうです。

最初の停車駅は能代。バスケで有名な能代駅では数分停車の間駅ホームにバスケットのシュートができるゴールがあるそうです。勿論足の悪い私は降りてトライはしません。病気ではなかったら降りていたかもしれませんが…
因みにあの有名な日本人初のNBAプレイヤ-田臥は、能代工業出身ですが生まれは神奈川県で、能代には完全にバスケ留学なのだとか。田臥クンはどんな気持ちで五能線に乗っていたのでしょうか?

能代を過ぎてしばらくすると、沿岸が限りなく海に近づきます。
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素晴らしい沿線の景色は本当に「これでもか!」というくらいに続きます。本当に素晴らしい大自然が続くのですが、写真としてはあまり変わり映えしないので、たくさんシャッターを切ったものの掲載は少しにしておきます。

能代を出て1時間後、白神山地の下に広がる湖沼群十二湖を見学するために、十二湖駅で途中下車します。
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十二湖は、初めて訪れた32年前、男3人で野宿した懐かしの無人駅です。当時は駅ではなく「仮乗降場」で勿論無人駅でした。駅から十二湖に向かうバスもほぼ我々だけだった記憶がありましたが、今回リゾートしらかみからは2輌分ぐらいの乗客がこの駅で下車、「バス、乗れるの?」と大いに心配しましたが、ちゃんと2台のバスが迎えに来て、奥十二湖まで運んでくれました。

十二湖の散策は通常の人で1時間強。帰りのバスの時間もあるし、途中階段などバリアフリー的にちょっと「厳しい」という現地の方のアドバイスもあったので、1周コース散策を断念。一番の見どころの青池だけをゆっくりと往復することにしました。

30年ぶりに見る青池。「神秘の色の池」ではあるのですが、30年前の感動は何故か起きませんでした。
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帰りのバスの時間は、湖沼群を1周して丁度良い時間配分になっているようで、青池を往復しただけの我々にはどうしても時間が余ってしまいます。土産物を覗いて、パンなどで簡単に昼食を済ませて時間を潰し、ようやく帰りのバスに乗り込みます。

二度目のリゾートしらかみは「青池ハイブリッド」。古くからある編成ですがリニューアルしてあって負けず劣らず快適です。
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ここ(十二湖)あたりからの1時間が、五能線の本当のハイライト。とりあえず写真を選んで2枚掲載します。しばしご堪能下さい。
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どうです?電車の中で座ったまま撮った写真とは思えないでしょう? やっぱり五能線の沿線の日本海の表情は、海沿いを走る列車の中ではナンバーワンだと思います!
十二湖から2時間弱の日本海を堪能した後、鰺ヶ沢からは津軽平野を走り、16時前に予定通り弘前に到着しました。

リゾートしらかみで行く五能線の旅、妻も大満足で私も堪能しました。素晴らしいことに変りはないのですが、30年前に比べるとちょっとばかり感動が薄れたような気もします。
 
その理由を考えてみると
1、列車が早い 昔は、もっとゆっくり走ったのですが…
2、窓が開かない 昔は、窓から手を出したらりんごに手が届きそうだった記憶があったのですが
3、テトラポットが邪魔 仕方ないとは思いますが、あれが見えると… 30年前より確実に増えていますよね!
 
でも素晴らしいことに変りはないので、このあたりは贅沢と言えると思います。高望みしすぎ! ですね。

続きは次回とさせていただきます。

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