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ペンフレンドの想い出 [回顧録]


切り替えて全く別の話を書こうと思います。

サンデーモーニングの「喝! あっぱれ!」の時間で、小久保選手の引退の話をやっていました。
小久保選手の略歴の紹介の中で、「和歌山県立星林高校卒業」というものがあり、星林高校で古くてほろ甘い記憶が一つ蘇りました。中学から高校の間6年間(それ以上)やり取りが続いていたペンフレンドの思い出です。
今日は予定を変えてその話を書こうと思います。

非常に恥ずかしながら、ペンフレンドにそして文通に憧れていました。中学校に入ったころです。なので当時の愛読書「中一コース」の「ペンフレンド募集」のコーナーに投稿し、忘れもしない10月号に自分の住所・氏名が掲載されました。中学一年の10月ですから1973年の10月のことです。
コメントはあまり覚えていませんが、「拓郎、陽水が好きなフォークファンです。フォークの好きな女の人手紙下さい。」ぐらいだったと思います。今はWebの時代ですからペンフレンド募集なんてあり得ない時代ですし、個人情報の関係で自分の現住所や本名が雑誌に載るなんてあんまり考えられませんが、当時としてはこれが唯一のペンフレンド募集手段だったと記憶しています。
勿論既に雑誌に名前が載った人に手紙を出す手はありますが、字が決してきれいではなかった私は、手紙を出しても返事を貰える確率が低いと自分で勝手に判断した結果、自分の名前を雑誌に載せてもらうことを選択したのです。

当時、中学生の人気を「中一時代」と完全に二分する「中一コース」に自分の名前が載ったのですから、翌日は私が完全に学校の話題の中心です。
「女の子と文通しようなんて、なんて軟弱な奴だ!」という当時硬派を気取った大半の男子同級生のあざけりを受け、「あんな人と文通なんて…信じられない!」という女子の冷ややかな目を受けてはいましたが、皆それ以上のことは詮索してきません。正直な友人からは「でも文通って、憧れるよね!?」という正直なコメントを受け、「やっぱり、皆心のどこかで異性と文通には興味あるんだ…」 と手紙の到着を楽しみに待っていました。

文通希望の手紙は結局50通ぐらい全国から届いたと思います。近くは隣の中学校の学区域から、遠隔地としては当時は名前だけで全くイメージもない東北や四国からも届きました。
「さて、どれに返事出そうか?」人生初というか「たった一度のモテ期」が突然来たような人生最大の楽しい瞬間を前に、何度も何度も手紙を読み返し、まだ見ぬペンフレンドとの楽しいやリ取を心に描きます。

結局、「ペンフレンドになって下さい。」という返事を出したのはそのうち3人でした。一人は当時住んでいた多摩川の反対岸の神奈川県川崎市の方(因みに私は東京世田谷区在住でした)、もう一人は名古屋の人、そしてもう一人が唯一文通が続いた和歌山市在住のJUNKOさんでした。
ペンフレンドを選ぶ際、字の極端に綺麗な人やあまりに理路整然とした文章を書く人は、何となく釣り合いが取れないような気がして、返事を出す候補から外してしまいました。かといってあまりに字の汚い人や文面意味不明の方にもご遠慮いただきましたので、返事を出した3名というのはそれなりに文面に魅力があり、字などは平均的だった記憶があります。

中一つまり13歳の時ですから、女性とちゃんと付き合った経験がある人はまだほとんどいない頃でした。勿論私も小学校6年生の時の初恋が淡い失恋に終わったばかりの頃で、女性とはまともに口をきいたことも少なく、初デートだってその2年も後の出来事です。なので3人のペンフレンド候補と13歳の「疑似恋愛」をしたかったんだと思います。

当初、一番手紙のやり取りが多かったのは川崎に住む「みっちゃん」でした。手紙の上とは言い結構会話も弾み、個人的には気持ちもそれなりに盛り上がったことを覚えています。勿論ペンフレンドですからお互いの写真交換なんてすることはできませんでしたが、多摩川の対岸なので「その気になれば見に行ける」距離でした。
見に行く(会いに行く)ことも真剣に考えましたが、そのうち手紙が来なくなります。
「何故?」という手紙を2回ほど書きましたが、結局その後一度も返事が来ることもなく、手紙だけの世界でも「失恋」してしまいました。

名古屋の人(この人も偶然みっちゃん)は、正直1回目の手紙と2回目以降の手紙とのギャップが大きく、当時「姉さんでも代筆したんじゃない?」と疑いたくなるくらいの内容で、どうにも返事を出す気になれませんでした。そんなリスクも含めて3人に返事を書いたという部分もあり、失礼ながら「想定内」(勿論、当時そんな言葉は知らない)だったと言えます。

和歌山のJUNKOさんとは当初から等身大で、話題なども大きく盛り上がることがなかったので、逆に文通が長続きした原因かもしれません。名前をローマ字でJUNKOさんと書くのも当時の彼女とのお約束でした。
文通のペースは2カ月に1回ぐらい。つまり今月手紙を出すとすぐには返事が来なくて、その翌月にJUNKOさんから返事が来て、私もすぐには返事を出さずに翌月ぐらいに返事を出す… つまりお互いが負担にならないちょうど良いペースだったように思います。
でもお互い、一度手紙を書きだすとそれなりに長文で、郵便料金を超過して郵便局から追加料金を取られることも少なくありませんでした。

同級生ですから同じタイミングで高校に進学。彼女の進んだ高校が小久保選手の母校である県立星林高校でした。当時都内近辺以外の高校は甲子園に出る学校の名前しか知らず、和歌山県と言えば箕島高校以外の知識は皆無でした。県庁所在地和歌山市内にある県立高校で、それなりにレベルが高い… という知識は、後になって知ったことです。

高校時代も文通は続きました。相変わらず2か月に一回のペースから、年に4回ぐらいに頻度は落ちましたが、それでもやり取りは続きました。一度「カセットテープ文通」を提案し、60分テープ一杯にメッセージとギターでの自作の曲を詰め込んで送ったこともありました。彼女からも返事は届きましたが、言葉を聞いているとまぎれもない「関西弁」で喋る不思議なJUNKOさんがそこにいて、そのギャップに愕然としたこともありました。
(高校生の当時、和歌山県のイメージに関西はつながらず、不思議な気持ちで一杯になったことを思い出します。和歌山は関西ではない。和歌山は和歌山だ… と思っていましたので。)

高校を卒業し、彼女は地元の公務員になり私は大学に進学。大学生になってからも頻度は落ちたものの年に数2~3回のペースでやり取りは続き、会社が決まって、仙台に赴任して、と節目節目には手紙を出して、返事を貰ったことを覚えています。

最後に手紙を出したのは1985年12月。何故正確に覚えているかというと「結婚しました。」という手紙が、12年間の疑似恋愛に付き合ってくれたJUNKOさんへの最後の手紙だったからです。

「結婚おめでとう。お幸せに!」という返事以来、彼女との手紙のやり取りはありません。今でも偶然の再会を祈って、Facebookなどで時折彼女の名前を検索してみますが、苗字が変わっているからか、ヒットすることはありません。

中学生・高校生時代の楽しい想い出、今でもこの曲を聴くと彼女のことを思い出します。
一度、チケット送っとけばよかった!?


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