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TV2題 情報番組への不満と感動している連続ドラマ [雑感]


一昨日52歳にはなりましたが、勿論そのことによる劇的な変化があるわけではありません。「とりあえずこのように52歳の一日も、毎日淡々と過ぎてゆくんだろうなぁ~」なんて考えながら毎日を送ることになるんだろうと思っています。
昔の井上陽水の曲、「白い一日」の「今日も、一日が すぎてゆく」というメロディーを思い出しました。
今日は、病気になって以来、より毎日の楽しみの多くの部分を占めるようになったTVに関することを2題書こうと思います。

1、NHK「ためしてガッテン」脳卒中に抗議!
先週水曜日、珍しくちょっと遅くなり20時前に都電荒川線でガタゴト帰宅していた時間です。珍しく携帯に叔母さんから電話がありました。最近叔母さんから電話があるときは、あんまりいい話ではなく、「誰かが亡くなった」という訃報ばっかりです。今年もう2回親戚のお通夜があったばかりですし、他には訃報の対象になるような人はいません。
「では何だろう? まさか…??」と思い電車の中なので遠慮がちに電話に出てみると、「これからNHKで脳卒中のことやるよ! 見たら!?」というありがたいアドバイスの電話でした。
8時まではあと数分、まだ電車の中で家に帰るまでにはあと1時間はかかります。
こんな時にありがたいのがリモートの録画機能。スマホから家のビデオにアクセスして、早速録画予約をさせていただき、昨日土曜日にゆっくり見ました。

放送の内容については「知らない最新治療の内容を教えてくれるのかな?」という期待感も少しはありましたが、先日も最新の治療法でBMIが紹介されたばかり… いくらなんでもこんなに早くにまた新しい最新治療が出るわけない!? と思って見ていましたが、さすがにそこまでの内容ではありませんでした。

何より腹立たしかったのは、「脳卒中のリハビリには半年の壁があり、発症から半年間はリハビリにより回復が期待できるが、半年を過ぎると回復は期待できない!」とTVで何回も強調・断言していたことです。

個人的にはこの放送・発言、我々患者の希望を裏切る許せない発言でした。
確かに発症後半年の「回復期」を過ぎると回復は停滞し、「治らなくなる」と以前は言われていたそうです。ところが近年の進歩した医学では、「発症後半年以降は、確かに急激な回復はしなくなるものの、とは言え『もう回復しない』という訳ではない。回復スピードは極めてゆっくりになるけれど、回復しないという訳ではない。だから諦めずにリハビリを続けなければいけない!」という学説が主流になっており、当然私もその説を信じて間もなく2年になるのに諦めずにリハビリを続けているのです。
そんな我々の心情を斟酌せずに「6か月の壁」「もう回復しない」と平然と言い続ける司会者。
「黙ってペヤングのCMだけでとけ!もう絶対食わないけど!」と猛抗議したくなる心情でした。

でも勿論対策は紹介します。「半年の壁を破る夢のような薬が発見されました。 それが、ボツリヌス菌です!」TVではびっくりしている出演者のオーバーな表情を捉えます。
ボツリヌス菌… そう、私が慶應病院で既に2回注射を受けている「ボトックス」がまさにこのボツリヌス菌の注射なのです…
最初に注射されたのが入院中の昨年4月、2回目は昨年の10月でした。実は来週火曜日に慶應病院の予約があり、場合によっては3回目のボトックス? と予期していていた時期だったので、正直「そんなに最新治療だったんだ!?」とちょっと意外でした。

でもNHKさん。 「ボトックスを打つことだけが半年の壁を破る画期的な治療。」ではないと、少なくとも私は信じています。
それにボトックス… TVでは生々しいので当然一切触れられていませんでしたが、実は少々高いんです。
保険適用になったとは言え、保険適用後でも3万円はかかり、医師曰く「10万円の注射だから簡単には打たないよ…」なのだそうです。
来週、慶應病院のF先生の診察です。TVの放映後「ボトックスの希望者、増えたのでは?」と聞いてみようかと思います。

番組の放映を教えてくれた叔母さんには感謝ですが、個人的にはあまり参考にならずモチベーションを下げる「見なきゃよかった」番組でした。

でも引き続き、絶対に諦めません!

2、久しぶりに感情移入しているドラマ 「もう一度君に、プロポーズ」
 
病気以降、TVをよく観るようになり、特にドラマを多く見るようになったというのはこのブログにも何回か書きました。今回のクール(10回の放送が多いので3か月ですが)も、ほぼすべての曜日でドラマを見始めましたが、1回や2回で見るのを止めてしまったドラマも多く、今でも見ている番組は火曜日の「リーガル・ハイ」や水曜日で次回が最終回の「ANSWER」など3本程度です。
その中で本当に久しぶりに個人的に激しく感情移入して楽しみにしているドラマがあります。その番組とは金曜日に放送している「もう一度君に、プロポーズ」という番組です。

このドラマ、話題の人気俳優が出るような話題の&派手な番組では全くありません。視聴率的には苦戦しているようです。でも、主演の竹野内豊の「優しさ」と「苦悩」の演技がとてもいいのです。

簡単に概要を書くと、竹野内豊と和久井映見は子供はいないけど仲が良かった普通の夫婦。ある日可南子(和久井映見)が脳卒中(くも膜下出血?)で倒れ、後遺症は残らなかったものの、結婚前の数年前からの記憶喪失となるという内容で、夫波留(竹野内豊)の苦悩とそんな妻に対する優しさが描かれている地味ですが見どころ溢れるドラマなのです。

「そんなバカな話がある?」と思うかもしれませんが、私の友人の妻も脳卒中による記憶喪失で「40歳を過ぎて意識が子供に戻ってしまい、実の子供より小さい子供になってしまった」という笑えない本当の話も聞いていたので、同じ脳卒中患者としても身につまされる部分もあります。
「自分のことを誰だかわかってもらえない」波留は怒っても泣き叫んでも当然だと思うのに、優しさから声を荒立てることもせずに妻のすべてを許すというか今の症状を受け入れます。
一時は妻のことを思うが故に「離婚しよう」と決心もするようですが、やはり妻を思う気持ちは強く、「思い出さないのであれば、もう一度ゼロからはじめればいい」と考え、タイトル通り「もう一度、君にプロポーズ」しようとするのでしょう。

この夫、波留を演じている竹野内豊が本当にいいのです。私にない「優しさ」を持っていて、「こんなにいい人いないんじゃない?」と思わせるぐらいに「いい奴」でカッコいいのです。主役夫婦の設定は30代後半、「大人が憧れる大人」って感じです。

また、この波留の「血がつながっていない父親」を演じている小野寺昭もいい味出しています。冗談しか言わないようなテレ屋キャラですが、本人も余命があまりない中で、妻の記憶喪失に苦悩する息子波留に対する思いやりの気持ちが痛いほど伝わってきて涙が出てきます。

近年、視聴率狙いでアイドルを主役に抜擢した薄っぺらいドラマが多い中で、中年とは言えないもののアラフォー夫婦が主役の話題性も多くないドラマですが、本当に見応えのある作品です。この一作の、ちょっと考えるような悩むようなしぐさだけで、竹野内豊が大好きになりました。

さすが「ドラマのTBS」の面目躍如ですね。
10%ない視聴率だそうですがネットの書き込みでは絶賛の嵐です。
視聴率だけに拘らず、こういう番組も作り続けてほしいと切に望みます。

あと2回ですが、時間があったら金曜10時是非ご覧ください。
竹野内の波留さん… ほんとうにいいですよぉ~!
 

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クラス会の帰り道 [雑感]

今は土曜日の21時過ぎです。
今日は朝から「青春18きっぷ」でのプチトリップ、関東大回りの旅を堪能しました。

18時からは恵比寿で開催された高校のクラス会に参加、たっぷりと学生時代の思い出に浸って、まだまだもっと話しをしたい気持ちを振り切って、湘南新宿ラインのグリーン車に乗っています。

本当に充実した1日でした。
旅行紀は電車に乗っている間じゅう、昔の携帯にさっさと打ち込みました。(今のスマホでは電池が心配なので)
明日、校正してから早速アップします。

クラス会、高校時代3年間同じクラスで過ごした48人の仲間、今日は内28人が参加し、大盛況でした。

仲間は皆、まだまだ盛り上がっています。私も最後までいたいし、二次会にも行きたいけれど、万全を期して予定通り9時頃には店を出て湘南新宿ラインで帰宅します。

次回のクラス会では完全参加が目標です。
そのためにも、リハビリ頑張らなきゃ!
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「旅のリハビリ」開始します! [雑感]


3月になって、少しづつですが暖かくなってきました。
でも、今年は梅の開花も遅く、春の足音は例年よりゆっくりのような気がします。
寒くても雨が降らなかった1・2月から、寒さはともかく雨が多い季節に向かってきています。傘をさして歩くのが不便な身の上にはいささか辛い季節に戻ります。
まぁ、雪が降るよりはましですが…

毎週日曜日は、ゆっくりと起きていつもの通り1時間半以上かけてリハビリトレーニングをしています。毎週、進歩が感じられないので、落ち込んでしまうこともありますが、もう落ち込むことにも慣れました。
良くならない自分を受け入れ、でも「絶対に諦めない」ことを改めて誓いながらいつもの通りの日曜日の午前中のルーティンワークを乗り切っています。

さて、以前にも何度か書いた私の復帰計画ですが
・今年は4月から通常勤務に復帰
・来年春以降、車の運転に復帰
・来年には(車で行く)ゴルフ打ちっぱなしの練習場に復帰
という青写真を描いています。
この青写真に変更はないのですが、今年はとりあえず週5日働くことが目標で、土日については「とにかく家に帰って疲れを取るための休養に充てる」ことぐらいしか考えていません。

でもこの3月までは、金曜日も休みです。4週間(つまりあと4回)は会社に許可をいただいて週4日勤務をさせていただけることになっているのです。
勿論、4月以降「ずる」をしてまでそんな恵まれた生活を続ける気は毛頭ありません。正式に週5日、つまり通常勤務にちゃんと戻る気マンマンですが、でも倒れてから2年近く続いた変則勤務生活もあと4回と思うと、正直ちょっと感慨深いものがあります。
金・土の週2回だったリハビリが、4月以降に備えて土曜日に手と足の連続リハビリに変更できた先月以来、少しづつ週末にに暇を持て余すようになりました。

確かに週4日働いて帰宅した木曜日には、「何となく疲れたなぁ~」という気になり、金曜日にはひねもすTV前のソファーにグダっと横になり、1週間撮りだめしたビデオを見ているのですが、土曜日と日曜日の午後は疲れも取れ、正直暇を持て余すようになりました。(土曜日の午前中はリハビリ、日曜日もリハビリとブログ投稿がマイルールになっています。)

ということで、これから4週間ただビデオを見て家でブラブラする週末は少々退屈です。4月からは週5日勤務になるということもあり、やっぱりこの間何もしないで4月を待つことはせずに、「何かをしたい!」と思うようになりました。

さて、何をしようか…  本来車があればしたいことはたくさんありますが、交通機関が限られている今、あまり「これがしたい!」というものがありません。

「ん?? 交通機関?? そうだ! 鉄ちゃんに戻って、列車の旅を楽しんでみよう!」
と、思い立ったのが昨日の夕方… 早速、ネットをオープンして検索を始めてみました。
そういえば、「青春18きっぷって期間限定だったなぁ~!?」 と思い、検索してみると、2012年春季利用期間 3月1日~4月10日 の記事が。
「これだぁ~!」と思いました。

ご存知とは思いますが、「青春18きっぷ」は普通列車限定でJR全線乗り放題のきっぷ。5日間有効ですが、バラで1日づつ使うことができ、毎週末、1日づつプチ旅行に行っても週1枚で済みます。つまり、今月1か月、毎週末にプチ旅行を楽しんでも、合計で12,000円程度で済むということです。

ということで、来週から金または日のどちらかについては、毎週自分なりに「ぶらり途中下車の旅」を楽しんでみることにしようと思っています。

来月からは週5日勤務になりますので、土日の疲労度が読めません。5月からは池袋泊りもなくなりますので、5日間フル通勤(痛勤)の疲労度がどのくらいなのかの想像がつきません。なので4・5月あたりは疲労が読めず恐らく旅を楽しむどころではないのでは? と想像しています。ついては、今のうちに旅を楽しんでおくのも悪くはないのではないか? と考えた次第です。

週4日勤務は昨年5月からほぼ1年、もう疲労度もペースもほぼ掴めました。
来月からは週5日になるのですから、3連休のうち1日はアクティブに旅をして、「旅のリハビリ」をしてゆきたいたいと思います。
青春18きっぷは、妻とも一緒に旅行することができます。(きっぷを1枚づつ使うことができます) 1回ぐらい妻が同行出来るかも知れません。

数年前、まだ子供が学生の頃、この切符を2枚づつ渡して、娘と息子に「これで仙台の田舎(妻の実家)に行って来い!」と命令したことを思い出します。当時学費がかかり貧乏だった私は、一人往復2万円の新幹線代を節約するために、この切符で二人で1万円と合計3万円も節約をしたことがあったのです。
「この切符で、二人が鈍行の魅力に目覚めればいいなぁ~!」とちょっとは思いましたが、片道5時間程度かかって仙台を往復した2人は、鈍行の魅力に目覚めるどころか、「もう懲り懲り!」と帰省の旅費をケチった貧乏な親父を散々酷評しながら帰ってきました。

さて、第1回目の日帰り旅行は何処へ行こう? 早速今日の午後から旅行のプラン作りに取り掛かります。そのために必要なバイブル「時刻表」を今から買いに行こうと思います。
そして、「青春18きっぷ」も買いに行きます。
「青春18きっぷ」を「大人の休日倶楽部カード」で買おうと思います。
不思議な組み合わせですよね!?

最近、写真付きのブログ投稿も減っています。同じように、Facebookの投稿も何故か激減しています。(ブログはともかく、Facebookは2月の投稿がゼロでした。)
「飽きた」わけではないのですが、正直投稿するネタがないのです。
(自分のFacebookは投稿しないものの、人の投稿は楽しく読んでいます!)

これでしばらく旅行記を書けます。

第1回目の旅行は来週の金曜日または日曜日。
行先は… 今から考えますが、とりあえず栃木方面かな?


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スーラーメンと酸辣湯麺 [雑感]

 
今週は、退院して自宅療養している息子がいる久しぶりの我が家です。
息子は月曜日に退院しましたが、約2週間の自宅療養を医者から命令され、就職以来最長の休暇を過ごしています。本人的にはもうすっかり元気なのですが、一応救急車で搬送された人生初の大病なので、医者が「もう働いていいよ」というまでは無理せずに療養に専念しなさい! という親のアドバイスを珍しく遵守しています。
 
先週は会社と自分のアパートに母親同伴で行った以外は、我が家で毎日TVを見たりボケーっとしているのと、自宅(職場?)から持って帰ってきたノートPCで何やら毎日仕事らしきものをしています。
来週の金曜日に順天堂病院の診療予約があり、この診察でOKがでればその日のうちにアパートに帰り、土曜日から通常通りの仕事に復帰する予定です。本人はもう100%その気でいますし、我々もそうなってくれると信じています。
2月1日の発病から24日目、ほぼ1カ月の思いがけない療養でした。
 
入院費や諸経費などは一旦すべて私が立て替えており、本人には「俺が60になるまで、あと9年間貸しておく!」と言ってあります。
どうせほんの僅かは遺産として残すわけですし、あげてもいいと言えばいいのですが、やっぱり今後も体を大切にするためにも、「もうこんなお金のかかる病気なんかしない!」という覚悟を持ってほしいことと、「もう大人なのだから、自分の入院費用は自分で払う」という強い気持ちは持って欲しいと思い、「貸し」と言い続ける予定です。
返してくれなくてもいいと言えばいいのですが、あと9年後つまり退職の年になって思いがけずに返してもらえれば、恐らくこんな嬉しいことはないんじゃないかと密かに楽しみにすることにしています。
そういえば、私も何回か「何年後かまで貸してあげる」と言われて母親からお金を借りた経験があったなぁ~と今更ながら思い出します。
でも、ちゃんとは返さなかったなぁ~ 

 
ところで今日は、好きなというかハマっている食べ物とその思い出について書きます。
その好きな料理とは、「酸辣湯麺(サンラータンメン)」という酸っぱくて、辛いラーメンです。最近、中華というか四川料理の店で多くメニューに取り入れられており、勿論息子の勤務する四川料理のチェーンでも、当然メニューにあります。
元々は「サンラータン」という酸っぱ辛いスープがあり、そのスープに麺を入れたものらしいのです。

実はこの料理との出会いはもうかなり前です。平成2年ですから1990年、当時横浜の関内駅前にあった支店にいた頃によく行っていたそれなりに高級感のある中華料理店のメニューにあり、「スーラーメン」という名前で愛されていたものをしょっちゅう食べていたのがはじめなのです。

横浜の関内と言えば、「横浜スタジアムを超えればすぐ、あの横濱中華街」という中華の本場中の本場。あの周辺で食事会や宴会と言えば、中華街が当然というぐらい中華料理が生活に根付いている街です。おまけに当時はまだバブル絶頂期で、まだペイペイの我々でも中華の名店で1万円ぐらいのコースを食べることも珍しくありませんでした!
当時まだデビュー直後の大魔神がビュンビュン投げていた横浜スタジアムからはベイスターズの応援歌が聞こえ、誰かの特大ホームランが飛び込んで来そうなくらい近いビルのオフィスで働いていた我々は、週に1回ぐらい昼飯は片道10~15分掛けて、中華街に出かけることも茶飯事だったのです。(でもランチはそんなに高いものは頼んでいませんでしたが)

そんな中華街に近い関内の駅前で孤軍奮闘していた店は「大雅飯店」という3階建ての店、中華街の店に負けない規模ですが、場所のハンデをものともせず、それなりに繁盛していた記憶があります。

でも我々の間では、「大雅飯店行く?」なんていう人は誰もおらず、「スーラーメン、行かない?」というのが大雅飯店でランチを誘う合言葉でした。大勢で大雅飯店の丸テーブルを囲んでも、定食(それなりにあった記憶はあるのですが…)を食べる人は誰もおらず、円卓のテーブルに座った全員がメニューも碌に見ずに「スーラーメン!」。
週に1回とは言いませんが、月に1回はどうしても食べたくなる麻薬のような味に中毒になった同僚は、今思い出すだけでも10人はいたと記憶しています。

肝心のスーラーメンは当時でも確か700円(?)。スーラーメンの漢字は酢で始まっており、初めて食べる人には衝撃の酸っぱさです。でも、その酸っぱさが次第に病み付きになり、気が付くと一心不乱に夢中になって食べ、汁まで完食しています。
他の店の「酸辣湯麺」のようにスープに赤い色はそんなにありません。ただ辛さはそれなりにありました。でも主役は「辛さ」ではなく「酸っぱさ」だったことは間違いありません。仕上げに卵をといたスープのイメージはやっぱり「酸っぱいスーラーメン」というイメージ。ラーメン一杯700円というのは、当時としては決して安い方ではありませんでしたが、比較的大きなプリプリのエビがかなり入っていましたので、その意味でも満足感ありました。

関内に勤務したのは丸5年、その後都内に転勤して自宅も横浜から埼玉に引っ越しましたので、関内に行く機会もほとんどなくなりました。時折、中毒が切れたかのように、「無性にスーラーメン」が食べたくなりますが、その頃は「関内の大雅飯店のオリジナルメニュー」だと思っていましたので、そのうちに少しずつ記憶は忘却の彼方に消えかけていきました。

数年前、別の知人からある店の「酸辣湯麺」を教えられました。食べてみると大雅飯店のスーラーメンと比べると、「酸っぱさはちょっと物足りないし、スーラーメンよりちょっと辛いけど、旨い。これはスーラーメンと同種の食べ物では?」。その後は、四川系の中華料理店に行くと、あの「スーラーメン」の味を求めて、酸辣湯麺を頼むようにしています。
確かに美味しい店もあるのですが、まだ「スーラーメン」を超える味には出会っていません。

倒れる半年前ぐらいだと思いますが、横浜で用事があったので「久々の大雅飯店でスーラーメン!」とわざわざ足を延ばして関内まで行き、大雅飯店を訪ねました。
昔と変わらない外観で、1階受付には20年前からいるおじさんがいます。私を見ると、以前と同じように「毎度っ!」と声を掛けてくれて2階へご案内です。
スーラーメンは当時と同じ味、酸辣湯麺という名前が徐々にメジャーになってきた頃でしたが、名前を変えるなんて小細工をせずに、あたかも「うちのが、元祖スーラーメン!」と言わんばかりの迫力と酸っぱさは相変わらずです。
帰りにも1階のおじさんは、いつもの通り「毎度っ!」。10年振りぐらいなのを感じさせないような常連さんに対する接し方で、何故かとっても嬉しくてたまりませんでした。
久し振りかどうかはともかく、私のことは間違いなく覚えていていただいたようです。

その後も私の「スーラーメン探し」は続いています。当然、池袋エリアでも酸辣湯麺のある店はかなり訪ねて食べましたが、残念ながらまだ横浜関内の大雅飯店のスーラーメンを超える(匹敵する)味には出会えていません。
これからも「私のスーラーメン探し」は継続するつもりです。

スーラーメンを超える酸辣湯麺はともかくとして、最近、インスタントでありながら酸辣湯麺の中ではスープの味は上出来なラーメンを発見、調子に乗って楽天でケース買いをしました。それは明星の中華三昧の酸辣湯麺。麺はいかにもインスタントでちょっといただけないのですが、スープは食べ歩きをした店の真ん中~上位には入るぐらいの出来で、インスタントとしては満足できるものです。

これを食べてスタミナをつけて、「私のスーラーメン」探し、引き続き頑張ります!!

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外貨預金、苦戦中!! [雑感]


最近、外出することも少なく、「最低でも週1回は更新しよう!」と決めているこのブログですが、書くネタがなくて困っています。
そもそも闘病の記録を日記に書こうと思って始めたことですが、その時はネタは無尽蔵にあると信じていたのですが… 確かにはじめの頃は書く内容に困ったことはありませんでしたが、最近は書く前に「何を書こうか…」と1時間以上リハビリをしながら、ずっとずっと悩んでいます。

「闘病記や回復記を書けばいいじゃないか!」と思われると思いますが、正直自分でも呆れるほど回復が遅いというか症状が改善されず、自分なりには書くほどのネタが全く思い浮かびません。
久しぶりに逢った知人は「久しぶりに逢って、随分良くなったじゃない!?」と言ってくれる方もいますが、毎日この症状と付き合っている本人としては、全くその実感はなく、褒めていただいたその言葉も、お世辞にしか聞こえません。
少しは良くなっていると信じてはいますが、例えば「半年前の症状ってどうだったっけ??」と言っても明確には思い出せません。唯一歩く速度ぐらいが明快な指標になるモノですが、歩く速度はそんなに変わっていないような気がしています。駅までの道、相変わらずすべての人にさっさと追い抜かれてしまい、不動産屋表現で「駅まで7分」のマンション(元気な頃は目安8~10分)から駅までは、相変わらず15分程度です。

ということで、今日はお金・外貨貯金のことについてを書きたいと思います。

ようやく子供2人の養育・教育経費から解放され、少しですが給料から貯金に回せるようになったのが今から3年前。勿論、1年半前の脳卒中で倒れて生活が一変する1年ちょっと前のことです。
大学の学費は年間100万前後。子供の大学在学中は、この授業料を僅かな貯金を食い潰さずに1年間で貯めることがギリギリでした。4年生の秋、最後の学費を振り込んだ時には、本当に充足感というかほっとした満足感がありました。
そして、「これからは我々夫婦の老後の楽しみのために、せっせと貯金しよう!」と固く心に誓ったものです。

思い出せば会社に入った22才の時、手元の貯金はほぼゼロ。「江戸っ子だから、宵越しの銭はもたねぇ!」と気取っていた訳ではなく、単純に大学時代は「とにかく旅行とバイトに明け暮れ、バイトで貯めた金を夏休みと春休みの旅行で全て使い果たす!」という生活を4年間続けていた私でしたので、今から考えたら本当に武器を何も持たずに戦地に出かけて行ったような、非常に危険な状況でした。

研修中に貰った15万前後の初給料を全て研修所での飲み代に費やし、仙台に赴任した時には初めての一人暮らしなのに簡単な家具を買ったらあっという間になくなってしまう10万円が全財産という非常に心細い状況でした。
その10万で中古のTV・冷蔵庫・洗濯機を買い、残金1万円で最初の20日間を暮した記憶があります。

それでも「何とかなる」という楽天的な性格は当時から変わらず、給料が出ると颯爽と飲みに行って、給料の大半を最初の1週間でほぼ使い切ってしまうというのが当時の生活パターンだったのです。

妻と知り合ったのが1年目の3月、4・5月ぐらいから付き合うようになり、当時は倹約家だった妻から時折借金しながら生活していました。
結婚したのは3年目の12月。結婚式場のホテルの支払いは冬のボーナスを完全にあてにし、新婚旅行の費用は結婚式のご祝儀をご祝儀袋から出して使わせていただくような正に「綱渡り」の状況でした。

本当は結婚後、私の給料だけでは生活ができないと考え、当面共稼ぎをする予定でいたのですが、結婚を機にそれまで勤めていた会社を辞めた妻が、何とハネムーンベイビーに恵まれ、その2年後には2人目にも恵まれてしまったため、結局妻は結婚以降ほぼ働くことなく専業主婦で過ごすことになりました。

そんな状況でしたので、25歳で結婚、26歳で父親になった私は常に貧乏。我が家の生活費に子供たちの学費、車を買いそして家を買い、ローンの支払いに追われて正直貯金どころの騒ぎではありませんでした。

3年前、ようやくそんな生活から脱却、今までは学費を払って小遣いをあげていた子供が、逆に僅かですが生活費を家計に入れてくれるようになりました。ようやく毎月の収支が黒字になり、毎月僅かではありますが貯金ができるようになりました。(それまでは月の収支も赤字。毎月のマイナスをボーナス等で辛うじて埋める日々です。)
そこで、今までは興味を持てなかった貯金の金利を見てみると、銀行の金利なんて定期預金にしても限りなくゼロに近い金利。「これからコツコツ貯めよう!」と考えても、ちょっとその気にもならない金利です。

「何か率がいい投資はないかなぁ~?」と考えていましたが、若いころから海外旅行を商売にしていた私に親しみやすいのはドルを初めとした外貨預金。ずっと1ドル100円前後で推移していたドルが、当時95円程度と当時としてはちょっと円高で推移していました。
「これだぁ~!」と思い、早速貯金の大半をドルに両替、それでも全部をドルにするのはアメリカに何かあった時のリスクが高すぎると考え、1/4は当時の「優良通貨」ユーロに両替しました。

私が初めてアメリカに行ったのが昭和59年の入社2年目、当時1ドル240~250円が両替レートでした。当時アメリカ・ハワイへ旅行して、「物価、高っ!!」と感じたものです。というのはスーパーで当時コーラが一本$1、当時出張時に会社から支給される食事代が1700円。当時のドルに直すと$7~8程度で、朝食はホテルでなんか絶対に食べられず、会社支給での食事代で食べられる朝食はマクドナルドだけだった記憶があります。
その頃、友人と「$1は100円ぐらいが妥当。$1=¥100になるよう、日本も経済力つけたいよね!」と話していたことを思い出します。

その後円はジリジリと上昇、1時95年頃には$1=¥80前後の時もありました。その頃アメリカへ行き、当時アメリカの流行の最先端であったアウトレットモールへ行き、円高の恩恵を目いっぱい享受しましたが、その後ドルはじわじわと値を戻し、結局110円前後まで戻りました。
確かに80円の頃アメリカ本土に行くと、ニューヨーク等の大都会はともかく、ロスなどで売っている普通のものを比較すると、アメリカの物価はとてつもなく安く感じられ、その後$1=¥110に戻った時には、「やっぱり、1ドルは100円が適当」という信念を強く持つようになり、「1ドル=100円」が私のポリシーになりました。

ドル預金をする際、当時では最新の投資である「FX」も検討しましたが、やっぱり万一のリスクを考えるとそこまで踏み切れませんでした。ドル貯金でも95円で両替し、100円に戻した時に再両替すると5%の儲けです。とりあえず最初はそれで十分だと思っていました。今考えたら、この判断は本当に助かったと思っています。

その後90円まで下がった時、「今が勝負時!」と思って更にドルに両替しました。その後85円に下がっても、「おかしいなぁ~!?」と思いながら更にドルを追加していきましたが、徐々に顔が青ざめています。

ご存知のように今はドルが76円前後、投資初期に比べると最大25%ぐらいの大損です。ユーロに至っては、120円で買ったものがいまや97円です。

ということで、すぐに両替すると損失が確定するので、しばらく両替しないで放置しようと思っています。万一$1=¥100に戻ることがあれば(もうないかもしれませんが…) 追加で買った分も含めて考えると「大勝ち」になるのですが…

とりあえずドルもユーロも定期預金にして塩漬けにしてあります。
でも、やっぱり0.1%以下の金利では定期預金にする気、起きないんですよねぇ~…

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リハビリセンター雑感 [雑感]

おはようございます。久しぶりの携帯からの投稿です。先日、長文の力作ブログが投稿前に何故か消えてしまって以来です。

先日打っていた内容と言うのは、台風の日のことです。この日会議で多摩で足止めを食っていた私ですが、ようやく動き出した京王線は良かったものの、新宿から池袋間の山手線が最悪、夜11時近くの時ならぬラッシュで電車は超満員状態です。
池袋の家までタクシーで帰ろうとしたのですが、新宿駅のタクシー乗り場も山手線に負けず劣らずの混雑振りです。
諦めて山手線のホームの渋滞に並びましたが、後ろから押されてこの列車は見送ろうと思っていた列車に乗せられてしまいました。

問題は池袋で降りるとき。ドアが開いた瞬間に後ろから凄い圧力で押され、ホームに突き飛ばされてしまいました!
その瞬間はもう正に「死ぬかと」思いました。突き飛ばされたホームでは親切な人に助け起こして 貰いましたが、その時の恐怖心は忘れもしません。

という内容をもっと事細かに打っていたような記憶がありますが、「忘れもしない」と書いた記憶も1ヶ月以上経つと薄れてきます。

間もなく月一回の診察のリハビリセンタに着きます!

1時間強のインターバル

診察、会計が終わりバスが来るまで40分。
先日指扇駅まで歩いた同じ時間帯です。あの時の悪夢がよみがえります。 勿論今日は歩くことはせずブログを打ちながらあと40分バスを待つことにします。

明日で11月。去年の今頃は退院して11月から週二回の出社と週二回のこのリハビリセンターでのリハビリを受けていました。
あの頃に比べたら足が痛いのを除けば大分復活したイメージがありますが…
とにかくめげずに頑張るしかありませんね。

今日のリハビリセンターはとっても静かです。リハビリしている人、とても少ないような気がします。
そういえば、去年の退院の頃もベッドがガラガラだった記憶があります。
その後冬には満床になったと聞いていますので、やっぱり脳卒中は夏と特に冬に多い病気で、季節のよい秋には少ないのでしょうか?

この5階には私が4カ月間入院した病室があり、お世話になった看護師さんがたくさんいますが、退院以来一年以上一度も上に上がっていません。
久しぶりに皆さんにお目にかかりたいとは思いますが…

バス停です。ポカポカ陽気のとてもいい天気になって来ました。この陽気、足さえ痛くなければちょっとぐらいは散歩したい天気です。
前回、無情にも通りすぎたバスに乗り込みました。あんなに遠かったのに、バスで通るとあっという間ですね。
バス停がずっと無かったエリアを一瞬で通過しました!

来月この病院に来るときには、「いい思い出」になっていればいいのですが…
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深夜のオフィスにて [雑感]

今は夜の9時前、ほとんど人がいないオフィスです。

話せば長くなりますが、この時間というかあと1時間後までの予定で、遅くまで仕事をしなければならない人がいて、本来当番の残業管理者が管理しなければいけないところですが、どうしても本日の当番が9時までしかいられないということで、ピンチヒッターを引き受けた次第です。

本来、残業当番そのものも交代で引き受けなければならない立場なのですが、病気ということで皆様の理解をいただき、当番も免除していただいている状況ですので、少しぐらいはみんなの役に立たなければなりません。

当番と言ってもただ「最後まで残れ」ばいいのですから、病身の私でもできることで、他のことで役に立たない現在、こんなことでもほんの少しでも役に立てるとしたら、嬉しい限りです。 

それにしても会社に9時過ぎまでいるのは、倒れて以来2回目です。もう1回とは…忘れもしない3月11日大震災の日。電車が動かないことが確定して、迎えに来てくれた娘の車が5時過ぎに自宅を出発したにもかかわらず、結局池袋についたのが10時前になり、その迎えを「今か今か」と待ちわびた時以来です。結局いつもなら1時間半~2時間で来る埼玉(の僻地)~池袋に往路5時間を要し、復路は夜が明けかけた4時過ぎに到着と、丸12時間近くかかったことが忘れられない思い出です。あの日のオフィスは誰もいないどころではなく、帰宅を諦めた社員が何とか酒とつまみをコンビニを廻って調達し、会社は宴会状態でした。私もジュースをいただきながら、つまみにならない甘いお菓子を食べて、おなかを満たしていたものです。 

娘の車が同乗してくれた妻と一緒に着いたのが夜の10時近く。その後、車で埼玉に向かいましたが、どこも本当に凄い渋滞で、本当に「信号が10回以上青になったのに、目の前の交差点が全く動かない&動けない」渋滞を経験しました。あの日は徒歩で帰宅する人が大変多かったのですが、徒歩の方は渋滞関係なく進むのに車は全く動きません。本当に「歩いたほうが早い!」と真剣に思いました。もし、病気になっていなかったとしたら私は、恐らく「帰宅を諦めて宴会→酔いつぶれて爆睡組」に入っていたのかもしれませんが、それでも歩いて帰宅を選択していたかもしれません。その時は、恐らくこの車を追い越していたに違いない! と勝手に納得していました。 

それにしても、あの時あの凄い渋滞にタクシーがたくさんいました。勿論、深夜割増時間に入っているのですから2割増しの時間距離料金ですから、いったいいくらになったのでしょう? 因みに池袋から我が家まで、通常の時間帯なら高速で1万4千円程度です。あの日は絶対3万円では収まっていないはずで、5万以上はかかったものと思います。 

車で7時間帰りながら、ワンセグでずっとニュースを見続けていました。購入時に買ったカーナビのワンセグですから、車が走り出すと画面が見えなくなるシステムなのですが、画面が見えなかった記憶は殆どなく、常に車が止まっていて衝撃映像が見えていた記憶があります。仙台にいる妻の母親と兄弟(弟と妹)の無事がわかったのもこの帰宅中で、皆でほっとしたことを思い出します。 

回想が長くなってしまいました。今考えると不思議な偶然と思えることが一つ。娘の車に無事乗って、「さぁ、これからどうやって帰ろうか」と帰り道や夕食の事を考えるために、とりあえず会社近くの細い道路に入り、とあるマンションの前で停車して5分ぐらい議論していたことがありました。

そのマンション… 実は後から気づいたのですが、今の「池袋の家」ではありませんか!!このマンション、初めて見に行った時、「何となく記憶がある、デジャヴのようなマンションだなぁ!?」と思ったものですが、引っ越し後に思い出してみると、デジャヴではなくちゃんとした出会いがあったのです。勿論、このあたりに土地鑑のない妻は、そんな出来事を全く覚えていないようですが… 

池袋のマンション滞在も、もう4か月。目標とする1年(というか正確には3月末が目標!)まではあと7か月です。順調と言えば順調ともいえますし、停滞と言えば停滞しているのも事実です。

ランチタイムの時間には、徒歩で片道15分歩いて大塚駅近くに行くようにしています。これを後7カ月続けたら、手はともかく足(歩行)は普段のように戻るのでしょうか? 

そういえば、万歩計で始めた日本縦断ウォーキング、先週末、スタートの北海道完歩まであと十数キロになっていました。今頃は、函館が目の前でしょうか? それとも もう津軽海峡?

イカソーメンが食べたいなぁ~!

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以上20170617テスト

 


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「ラーメン二郎」のこと [雑感]


昨日何気なくフジテレビの7時からの番組を見ていたら、後半で「ラーメン二郎」の特集をやっていました。茂木健一郎が二郎を食べている時の脳を科学するような番組だったと記憶しています。
直後にたまたまこの番組を見ていた友人から「見た?」というメールを貰い、私の頭の中は二郎一色になりましたので、今日は二郎について書きます。

私が初めて二郎を食べたのは1979年、そう大学に入学した年です。その当時はチェーン店どころか超マニアックなラーメン屋で、勿論三田に1件しかありませんでした。

我々学生の間では話題の店ですが、ハマっている人が多い反面入ったことがない人も多く、特に女性は雰囲気的には絶対に入れないイメージでした。恐らく当時の女性で二郎を食べたことがある人は殆どいないだろうと思います。当時は女性は「ラーメン屋に並んで入る」ということは非常にできづらい雰囲気がありました。

当時我々の間ではある伝説がまことしやかに流れていました。曰く「二郎には麻薬が入っている!」その理由は「最初に食べた時には何とも思わず、2回目にちょっと旨いと思い、3回食べたら中毒になる!」というその習慣性によるものです。

最初に食べた時のことは実はあまり覚えていません。確かに最初から「旨かった!」という記憶はあまりなく、当時は並んでまでラーメンを食べる文化があまりなかったので、「ラーメンごときに並ぶなんて…」というマイナスイメージの出会いでした。
その後はお決まりの通り見事に中毒に侵され、気づいたら週2回以上(時には3回!)二郎を食べないと体調が悪くなる毎日でした。

二郎と言えばよく呪文のようなオーダーの仕方が最近話題になりますが、昔は食券もなかったので、そのやり方は確かに初心者には難しいもので、「最初は先輩に連れて行ってもらうところ」というのが一般的でした。当時、壁に貼ってあったメニューは

ただのラーメン
豚入りラーメン
卵入りラーメン
全部入りラーメン(今はありませんが豚+生卵が入ります)
大盛りラーメン
大豚ラーメン
大卵入りラーメン
大全部入りラーメン

の8種類だけだった記憶があります。

しかしながらこのメニュー通りに頼む人は誰もいません。
まず、席に座っても自分からは何も言わず、二郎の親父さんからの声掛けを待ちます。
最初の声掛けは、座った人の顔を見て「はい、何?」と聞かれます。自分と目があったことを確認した後、ここではサイズのみ申告します。そう「大」か「小」と言うだけです。ここで先走ってオーダーを言う人がいますが「素人」だと思われて親父さんからは無視されます。因みにサイズにはもう一つ「増し(麺増し)」という超大盛りのメニューがありますが、当時いくら大食漢で鳴らした私でも残念ながら挑戦する気にさせない伝説のメニューでした。当時、体育会柔道部の専用メニューのような近寄りがたい雰囲気がありました。

ラーメンが出来上がり最後の仕上げの前に、親父さんからもう一度「はい 何?」と聞かれますのでここで初めて自分好みのオーダーを伝えます。
この追加オーダー、系列店ができた今では「トッピング」と呼ばれて定着しています。個人的にはラーメン特に二郎にはこの言い方は似合わないと思うのですが…

この時に学生時代の私のいつものオーダーは
「大ダブル辛め野菜ニンニク」
です。訳すと
大=大盛り
ダブル=豚肉ダブル(当時はメニューにはなく、チャーシューが倍の8枚)
辛め=スープ濃いめ(醤油ダレを追加!)
野菜=もやし・キャベツ中心の野菜を大盛りに!
にんにく=刻みにんにく追加!(思えばデートの日でもニンニク食べてたなぁ~)

というオーダーになります。当時は今の系列店のような「野菜ダブル」であるとかのメニューはありませんでした。また、ただでさえ脂っこい二郎に「油を増そう!」と考えた人はほぼ皆無だったように思います。少なくとも1980年代の最初の4年間には、このオーダーは聞いたことありませんでした。

当時、最初の頃は大ダブルで確か380円だったと思います。(その他の追加は無料)その後440円になり卒業する頃は480円になったと思います。もしかしたら最初っから440円だったかも知れません。ただ、卒業の時に大ダブルが480円だったのはよく覚えています。

卒業後、最初は仙台に赴任しましたが出張や休暇などで東京で時間があれば二郎に並びました。その後、東京に戻ってきてからも仕事途中で並んだりしました。特に覚えているのは旧三田本店の最後の日。区画整理で立ち退くことになった二郎の最後を惜しんで、最終日には長蛇の行列になりました。当然私も仕事をサボって当時のラーメン好きの部下と朝から2時間以上並びました。並んだ瞬間我々が「最後の客」となり、「後の人たちを断って下さい」と頼まれ、約2時間並ぼうとした人たちを断ったのが思い出です。
二郎関連のサイトで「旧三田本店最後の客」というペンネームで投稿をしていたのは、実は私だったのです!
ただ二郎は思いの外早く今の場所で復活し、我々を一安心させてくれました。
あの時は「当分食えない」と思って必死に並んだのに…

その後、あちこちに系列店ができ、我々を喜ばせてくれました。系列店は二郎そのものではありませんが、店によってはかなりレベルの高い店があり、満足です。特に私が神田で働いていた頃、神田に今神保町で営業している店がありました。
当時仕入れを担当していた私の取引先の人はたまたま二郎好きで、よく神田の駅で待ち合わせて二郎で一緒にラーメンを食いながら、かなり大口の大切な商談をしていたのです!

二郎の各支店のことは別の機会に書こうと思います。

食べたいな~!!

だけど脳卒中、医者には止められるだろうな~!!


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Twitterのこと [雑感]


今朝、朝早く起きていつものリハビリをした後、Twitterを見ていました。
そうしたら、震災以来ツイートのなかった岩手県野田村の観光協会からツイートがあるではありませんか!
本当に心配していましたが、無事が確認できて取り合えずほっとしました。本当に良かったです!!

TVでは相変わらず被害がクローズアップされていますが、個人的にはこのように少しづつ知り合いの無事が確認できてとにかくうれしい限りです。まだ被害の情報が流れる一方、着実に復帰への胎動も始まっています。今日も震災以来8日経つのに瓦礫の中から生存者が発見されたという嬉しいニュースがありました。
やっぱり間違いなく日本は復旧します! 我々の未来は明るいと確信します!

それにしても、この地震でTwitterやメールの機能の高さを再確認しました。震災当日、被災地への電話は勿論つながらずメールだけが辛うじて通じる状況でした。
3時前に地震が起き、揺れが収まった後すぐに自宅に安否確認電話しましたが、この段階でもう電話は通じず、メールだけは何とかつながりました。とは言え、メールはしばらくは何故か相手の携帯までは繋がらずに、「新着メール」を取りに行かないとメールが着信できない状況でした。(因みに、私と家族はauです。)

またこの日はメールが到着したとしても到着まで時間がかかるようでしたので、うっかりしていると後のメールの方が何故か先に着いたりします。足の悪い私は電車が動かないと決まった時点で車でしか家に帰れない状況で、たまたま休みだった娘と妻が車で埼玉から迎えに来てくれましたが、「今どこ」というメールの順序がメチャメチャで、いったいどこからどこに向かっているのかがわからなくなったものです。「今板橋に入った」というメールの10分後に着信したメールでは「今浦和。」いったいどちらを信じていいのやら混乱の極みでした。

因みに妻の実家仙台には勿論電話はつながらず、メールを何回送っても当然ついているのかどうかすらわからずとても不安でした。妻も何度もメールしたみたいなのですが、最初に連絡が取れたのは都内で働いている私の息子でした。息子から「仙台無事」というメールをもらった時にはとにかくほっとしたものです。
因みに息子の携帯はiPhone。仙台の兄弟の携帯もソフトバンクなので、相性が良いのかもしれません。

その日の無事合流した後の帰り道、何せ1つの信号を超えるのに赤信号を10回以上待つような本当に前代未聞の超混雑ですが、お陰様でカーナビのワンセグでTVを見ていましたので、この時間帯に地震の全体像についてはかなりの情報収集をすることができました。
そしてTVの情報を補完して役に立ったのがTwitterでした。

もともと私のTwitterは殆どつぶやかずにほぼ見る方専門。従ってフォローをしている人もされている人も非常に少ない現在です。「Twitterをやっている」というよりも「Twitter文化を体験している」というレベルです。ただ、知人が何人か登録しているので1日に1回はTwitterを覗くようにはしていました。

震災当日は、役に立つ情報を含めていろいろな情報が流れてきて、この情報は役に立ちました。私が登録している何人かの読者が1万人を超えるようなヘビーユーザーが情報を転送・拡散してくれたのです。
因みにいろんな情報を提供してくれたのは日刊スポーツなどのサイトです。

ただ中には心無い人の嘘までもが流れていて、不快な思いをされていた方も多いようです。例えばプロゴルファーの古閑美保さんも、この日かなりの情報を協力して流してくれました。拡散をお願いする目的で彼女にメッセージを送る人も多く、緊急事態なので彼女も快く1万人以上いる読者に転送してくれるのですが…
その情報がデマです。犯罪目的というより愉快犯ですね。本当に許せないと思います。

ただ、そういう広くフォロワーを持つTwitterの登録者(芸能人や有名人が多い)が広めてくれることで、Twitterはメディアとしての力を持ちます。個人のコミュニケーションツールと考えていた私にはちょっと意外な気がしました。

震災後、知り合いの会社では社員の緊急連絡先のバックアップとして、社員全員にTwitterに全員登録を義務付けたそうです。確かにこんな緊急事態にも有効なツールだし、利用料はかからないし… いい手段かもしれませんね。

ようやくTV番組が震災一色から普通の番組に戻りつつあります。ただまだCMは自粛している企業が圧倒的なようで、「困ったときの時間枠埋め」のACのCMばっかり流れます。

もう仁科亜季子(昔、大ファンでした。ちなみに当時の芸名は明子)やオシムのCMは流石に飽きたなぁ~ 」

毎日のように見ていて「もう飽きたなぁ~」と思っていた嵐やオードリーが懐かしく感じるようになりました。


セブンといえば… [雑感]

今帰り道の都電に乗りました。
いつもの時間のいつもの風景です。

今日会社に行ったら待望のWindows7が入っていました。
これで会社でも自宅でも7になり、長らく愛用したXPともお別れです。
ちょっと淋しい気がします。

それにしてもセブンというのは何か不思議な数字ですね。

この年配のおっさんが思い出すセブンは、何と言っても「モロボシダン」のウルトラセブン。
個人的にはウルトラセブンでセブンが7ということを知った記憶があります。

ウルトラマンシリーズで熱中して見たのはウルトラQ、ウルトラマン、セブンと帰って来たウルトラマンの4シリーズ。
中でも一番熱狂したのはセブンでした。

小さい頃からメガネをかけていた私は、セブン風に変身する時だけはヒーロー。
ジュワッチとメガネをかけるとセブンに変身です。

セブンが特に好きだった理由ははっきり思い出せないのですが、怪獣より星人が多かった記憶があり、このあたりが宇宙で活躍するイメージを彷彿とさせ、憧れにつながったのだろうという気がします。

最終回ウルトラセブン(=モロボシダン)が「宇宙に帰る」と当時のアイドル「アンヌ隊員」に告げた時、泣きじゃくりながら「いつか宇宙へ!」とも憧れたものです。

宇宙といえば「キャプテンウルトラ」の最終回も印象的でした。
あまり再放送を見たのは記憶がないので思いっきり不確かですが、確か「宇宙の果て」を見つけてたどり着いた みたいなストーリーだったようなおぼろげな記憶があります。

こんな古い話ばっかりするのは年を取った証拠ですね!

セブンはセブンでもセブンイレブンネタでも話せればいいのですが、セブンイレブンで特に思い出すネタがないのも事実です。

今日も昼メシはセブンのパンとおにぎりでした。

初めて食べましたがいくら入りおにぎり… 美味しいですね!値段も180円とかなり高いけど…
最近寿司などはあんまり食べていないので、久々に満足でした!
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