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倒れてから現在まで… その⑫ 退院に向けて<介護保険> [回顧録]


1月も休みなく毎日書き込みを達成するまで、後すところあと2日になりました。31日フルの書き込み… 「やった!」と言う感じで個人的には大きな達成感があります。

明日は医者に行くので今月最後のPCからの入力になります。
今日は病院退院までの回顧録を書きます。

8月最終週に一時帰宅の目標が達成出来たわけですが、その後は週末のたびに一時帰宅することができるようになりました。
毎週金曜日、3時頃にST(=言葉の)リハビリ終了にあわせて金曜日休みの娘が車で迎えに来ます。帰宅の間の薬を受け取り、娘の運転で車椅子を積み込んで自宅に帰ります。

それからゆっくりと週末を自宅で過ごし、日曜日の3時半にタクシーを呼んで病院まで戻ります。娘は日曜日は出勤なので、病院への送りは出来ません。片道5千円は痛いけれど、タクシーに車椅子を積んで豪勢に帰ります。
毎週毎週一時帰宅を繰り返しているうちに少しずつ自宅にも慣れてきて、少しずつ「家に帰ってきた感」も味わえるようになってきた訳です。

一時帰宅と言う当面の目標が達成されると、次の目標「退院」がいよいよ具体的な目標として意識されるようになります。リハビリセンターの入院の目安は通常3ヶ月、7月8日に入院した私は計算通りに行くと10月上旬に退院となります。

退院できることははいいけれど、その後の生活プランを考えいろいろと手を打っておかないと、「退院はしたけれど…」という状況になってしまうことは明らかです。

私も含めて、入院している人の大半は「退院=完治」ではありません。「完治はしないけれど、とりあえず入院するほどの症状からは脱したので、退院して引き続き治療する。」というイメージです。

私にも、発症直後はともかくこの時期になると「完全に治ってから退院する」ことが夢のまた夢であることがはっきりしてきます。病気のことをよく知らない頃は強がって「こんな病気1ヶ月で直してやる!」とか強気なことを言っていましたが、この時期になるとこの右手があと1ヶ月や2ヶ月で完治するわけがないことが否応なしに認識せざるを得ない状況になります。

リハビリ中、各訓練士と退院後の生活について話をすることが貴重な情報収集の機会になりました。ずっと入院しているわけにも行かずいつかは退院しなければいけないわけですが、退院してからもどこかでリハビリは続けた方がいい、また医療保険でリハビリが受けられるのは発症後半年に限定され、これを過ぎると介護保険でリハビリを受ける必要があることなどがだんだんわかってきます。

ついては、まず介護保険の認定を受けることが退院に向けた第一歩となります。介護保険では半年後以降のリハビリ以外にも住宅改修の経費なども補助されます。一時帰宅は出来たものの、まだ湯船に入れない私には、湯船に安全入るための「手すり」の設置は必須に思えています。

介護保険は住んでいる自治体(市町村)にて申請、認定されます。審査には通常1ヶ月ぐらいかかるらしいので、通常は退院の1ヶ月前頃に申請するようです。何事も早めに処理したい私は9月はじめに家族と役所に相談し、ちょっと早いと思いましたがこの時期に申請を行いました。

申請一週間後にはリハビリセンターに役所の職員が来てくれて、調査(ヒアリング)があります。別に嘘をつく必要もなく実際に身体が不自由なのですから、役所の人にありのままを話します。

約1ヶ月後に審査結果が郵送されてきました。介護度は「要介護1」でした。介護ランクは7ランクあり軽い方は要支援1・2で重くなると要介護1~5になりますので、私の要介護1は下から(軽い方から)3番目になります。
この介護度によって利用出来る介護サービスの種類に差が出てサービスの限度額が制限されるようですが、取りあえずリハビリセンター各位によると要支援ではなく要介護になったので、特に問題はないであろう…というコメントでした。

晴れて介護保険に認定されたので、次は介護について計画を立ててくれる「ケアマネージャー」を決めなければいけません。世間知らずの私はケアマネージャーは役所が選定して「私があなたのケアマネです!」って来るとばっかり思っていました。母が晩年人工透析を受けており要支援認定も受けていましたが、その時は役場の人がケアマネ役をしてくれていましたので…

認定書面にケアマネ一覧が同封されていましたが、「要介護患者」の場合は自分でケアマネを決めなければいけないそうです。勿論、住んで十数年になるものの地元に知人が極端に少ない私の場合、ケアマネリストを見ても全く知り合いはいません。入院しているセンターの人に相談をしても、さすが役所という対応で、「紹介」という行為は一切してくれません!

仕方がないのでリストの上の方の電話番号に電話してみます。応対良く話を聞いてくれて、後日回答という連絡をいただきましたが、翌日結局体よく断られた挙げ句、他のケアマネを紹介してくれました。
曰く「私は、手一杯で受けられない。他の方にもネットワークがあるので聞いてみたが、大半の方から断られた。この方のみ『受けてもいい』と言われたので、この方をお薦めします!」とのこと。つまり「田舎の私のエリアには、もうこの人ぐらいしか残っていないよ!」ということです。

私の住んでいるのがとってもローカルな地域だからなのか、ケアマネの顧客にも圧倒的に年寄りが多く、デイケアに通う老人の面倒を見ることは大変多いものの、私のように「職場復帰」を真剣に考えている人の面倒を見ることはあまり多くないのだそうです。ということは、慣れない私のような患者の面倒を見ることはあまりしたがらない人が多いのかも知れません。

今回「この人」と推薦された人は、最近独立されたばかりの方のようで、「とりあえず仕事が欲しい!」のでこの仕事も受けてもいいと回答したのではないかと推察します。
とはいえ、こちらも他に頼る方もいないので、とりあえずこの方にお願いしてみることにしました。

翌週の一時帰宅時にその人と面談、晴れて「私のケアマネージャー」がようやく決まりました。

さて、退院のタイミングですが医師との面接では「3ヶ月経過したので退院はいつでもいい。」と言われました。病院もそんなに混んでいる時期でもなかったので「リハビリをもう少しやりたいだろうから、1ヶ月ぐらい延長してもいいですよ。」と延長もできる優しい言葉もいただきました。
(後で入院した人に聞いたところ、12月ぐらいには満床状態で延長は一切できなかったそうです。)
確かに少しでも入院を延長して、一日でも長くリハビリを行う選択肢もありましたが、私的には「11月ぐらいから徐々に職場復帰」という目標を持っていましたので、この優しい言葉に甘える訳にはいきません。

ついては、半月延期をお願いし10月19日(火)に退院することに決めました。

倒れてから現在まで… その⑪ 入院から一時帰宅 [回顧録]


久しぶりの回顧録です。
この回顧録も10回を超え、そろそろ終わりになります。最初は「書くこと、無限にあるなぁ~!」と思っていましたが、書き始めてみると意外と書けないと言うか文書にならないことばかりでどうもそんなに残しておくことはいような気がしています。

7月8日にリハビリセンターに入院し、本格的なリハビリ生活がスタートしました。リハビリセンターの基本ポリシーは「基本ベッドに寝ないで車椅子で過ごす」ことです。

最初の1週間は瞬く間に過ぎました。OTではマッサージに慣れ、STでは言語不明瞭ながら少しずつ喋れるようになり、PTでは最初は平行棒の間を歩くのが精一杯だたものが、徐々に杖を使って周囲を歩けるようになり… ともかく、最初の二週間はあっという間でした。

リハビリセンターに転院した後、本当にたくさんの方にお見舞いいただきました。会社もリハビリ病院前は本当に病人だったのであまり見舞いを控えるようにご案内いただいたようですが、リハビリ病院に転院した後は推奨してくれたたわけではないのでしょうが、多くの方にご連絡してお見舞いをいただきました。
特に平日はリハビリがあるのでそれなりに時間が潰せるのですが、土日は本当に死ぬほど暇なので、土日の見舞いは心から嬉しい時間でした。

特に有り難かったのは、先輩諸氏の見舞いです。私の先輩ですから、すでに会社をリタイアしているような先輩が多いのですが、おそらく自分もしくは知人など周辺に病の方も多いのでしょう、兎に角噂を聞きつけるとすぐに見舞いに来てくれます。20年前の上司からお見舞いいただくのは、本当に嬉しい瞬間でした。本当にありがとうございました。

自分が4ヶ月入院してみて、初めてお見舞いに来ていただけるありがたさを痛感しました。
お見舞いの品なんてどうでも良いのです。入院している間は兎に角不安もあり「誰かと喋りたい!」という気持ちで一杯です。思いもかけず来ていただいた嬉しさ… 恐らく一生忘れないと思います!

最初の二週間、自分では普通に生活していたつもりなのですが、毎日朝から晩まで車椅子で起きていて、見舞いもたくさん来てくれて気が張っていたのでしょう、金曜日の夕方に3組来客が続いた後についに過労でダウンしてしまいました。
その週の土日は見舞客も断り静養に努め、何とかピンチを脱することが出来ましたが、これが入院中唯一の体調崩しでした。まぁ倒れてから一ヶ月ほぼ寝たきりの生活だったので、体が急に動いて悲鳴を上げたのでしょう。この後は無理せず適当に休むことで何とか体調を保つことが出来ましたが、この間は本当に不安な数日間でした。

8月に入ってからは順調なリハビリが続きました。順調というのは右手足が順調に回復している…と言うわけではありませんが、少しずつ歩けるようになり(勿論杖ついてですが)リハビリも訓練室→廊下一週→外周と少しずつその距離も伸びてきました。
この時期、日本全国は未曾有の猛暑に襲われていたようですが、冷房完備の病院にいた私はまだその被害を受けずにおりおりました。

8月最終週、ようやく週末に自宅に帰る「一時帰宅」の許可が出ました。約2ヶ月半ぶりの我が家です。一時帰宅の許可が出て以降、車に乗る練習や風呂に入る練習、布団に寝る練習など一時帰宅の訓練を繰り返しました。ただ、風呂は結局湯船に入るのが怖く、結局退院までシャワーのみとなり4ヶ月湯船なしの生活が続きました。
一時帰宅中は基本は歩きなのですが、万一のことを考えて車椅子を持って帰宅します。

一時帰宅当日は娘が来るまで迎えに来て自宅に向かいます。二ヶ月ぶりの外の道路を満喫しつつ家に戻ります。自宅に戻った後は兎に角転倒しないようにゆっくりと歩きました。自宅に戻ってもくつろぐことは出来ず、立つにも座るにも兎に角一挙手一投足が必死でした。

食事も、「あぁ~、うちのメシだ!」という感動はあまりありませんでした。まぁ妻も栄養指導を受けて徹底的に減塩食を作っているので仕方がないでしょうね。ただ、帰りに私のたっての希望で買ったケーキだけは本当に美味しかった!
病院では「病院で出された3食以外は一切口にしない!」と言う堅い誓いを遵守していましたので、倒れて以来のスイーツです。お見舞いにはたくさん美味しそうなお菓子などを頂戴しましたが、私の口に入ることは一切ありませんでした。
なお今年は本当に猛暑だったので、いただいたものは水ようかんなどの冷やしていただくものが多かったようです。おかげさまですべて妻と娘の胃袋の中に消えました。

一時帰宅では二つの大きな目標がありました。一つは倒れて以降どうも度が合わなくなった眼鏡を変えることです。
最近眼鏡を買うのは価格の安い均一価格の眼鏡市場などで買っていましたが、今回はそこまで行く余裕がありません。ついては、駅前のメガネ屋まで歩きます。
駅前までは普通で10分弱、今は15分強ですが、その日は片道30分ぐらいかかったでしょうか… 無事に検眼をして翌週に眼鏡を無事に手に入れました。度が強い私は、即日渡しの眼鏡はないのでまぁ一週間は仕方のないことでしょう。

翌日には床屋です。倒れて以来伸び放題の髪の毛を切りにこれも駅向こうの床屋に行きました。往復歩くのが辛く、帰りは車椅子になってしまいました。
退院まで毎回車椅子を持って帰りましたが、結局自宅付近で車椅子に乗ったのはこれ一回だけでしたが…

これ以降は毎週一時帰宅でした。毎週家に帰りようやく少しずつ「自宅で寛ぐ」ことが出来るようになっていきました。


倒れてから現在まで… その⑩ 食事と体重 [回顧録]


久しぶりの回顧録です。今日はリハビリセンターの食事と体重について書きます。

このブログを始めた頃に書きましたが、私の体重は数年前MAX110キロまでになり、ジムに通いつめて93キロまで落ち、倒れる直前はジムをやめていてリバウンドしていました。
倒れる前に最後に体重を計ったのは恐らく2~3日前。確か97~8キロだったと記憶しています。
「ヤバイ!本当に真剣にジム探さなきゃ!」と決意を新たにしたのを思い出します。

倒れてから茨城の病院や久喜の病院に入院中には、体重は全く計りませんでした。寝たきりで体重が計れない状況でしたが、「それどころではない…」と言う状況でした。
茨城の病院では入院3日目ぐらいから食事を取り出したような記憶がありますが、「どんなものが出たか」とか「美味しかったか」については全く記憶がありません。「食べる」と言うより「生きる」ことに精一杯だったようです。

久喜の病院では、おかゆとおかずのご飯を毎日食べました。旨かったかどうかは正直記憶にありませんが、食事の時間になってもお腹が空かなかったことはよく覚えており、味気ない病院食を無理矢理詰め込んでいたのだろうと思います。

リハビリセンターに入院して、倒れて以来20日ぶりに体重を計りました。まだ立てないので車椅子ごと体重計に乗ります。
「やつれたんだろうから、痩せたんだろう」と予想して体重計に乗りましたが、結果は97キロで倒れる前とほぼ一緒です。
「あれぇ??」とは思いましたが、考えたらこの20日間食べてはいないものの点滴で栄養を取り、運動という運動は何一つしていないので、当然と言えば当然でしょう。
この二つの病院の目的は「ダイエット」ではなく「私を生かすこと」ですから、栄養をきちんと与えてくれた2つの病院には感謝しなければいけません。
いずれにしても、体重は97キロから再スタートです。

私は脳卒中なかでも脳出血で倒れたのですが、原因は高血圧です。ということは、回復を目指し血圧を下げないと再発してしまったら元も子もありません。
勿論、デブも高血圧の大きな要因の一つですから血圧を下げる重要なメニューの一つに「ダイエットすること」も含まれています。

血圧を下げることを目的にしたリハビリ病院での食事ですが、カロリーは一日1800キロカロリーで、塩分は1日6グラムに設定されました。
主治医との面接で言われたことはは「全部食べてもこの食事でリハビリすれば、1ヶ月で2~3キロぐらいは痩せる。あまり急激にダイエットするとリバウンドするので、月3キロぐらいが適当。」でした。確かに、前の病院とは違って車椅子で生活しリハビリもしているので、一定量の運動はしているようです。

塩分ですが、1日6グラムというのは結構辛い量です。通常日本人は塩分摂取量が多めで、多い人は1日20グラム以上摂取しているのが普通なのに、1食ではなく3食で6グラム、つまり1食あたり2グラムです。

これは辛い物好きの私にはとっても考えられない量なのです。最初は全く味気なくて何を食べても味がしなかったのですが、恐らく前の病院でも同様に減塩食をたべているからでしょう、徐々に慣れてくるものなのです。

食事の塩分のイメージが掴みにくいと思いますが、例えばラーメンを汁まで飲むと摂取する塩分は10グラムと言われております。つまり、病院食の約2日分の摂取量です。
私は、もともとしょっぱいラーメンが大好きで、美味しいラーメンは汁まで完食するのをモットーとしていました。学生時代から大好きだったのは、最近大ブレイクしている「ラーメン二郎」。学生時代は大(大盛り)ダブル(チャーシュー2倍)をほぼ毎日食べていましたし、最近は都内に支店が数多く出来たので仕事の合間に二郎の支店を食べ歩いていました。
最近は大盛りは食えなくなり豚マシも食えなくなりましたが、普通盛でも普通のラーメン屋の大盛りに匹敵するボリュームです。
おまけに私は、スープを更に辛くする「辛め」のトッピングが大好きで、最近まで「辛め」と「野菜増し」が必須アイテムでした。(流石に2年前から辛めは止めていましたが… 「時既に遅し」だったのでしょう。)
ラーメンに加えて塩分の多い酒のつまみも大好き!でしたので、倒れるのも必然といっても良かったのかもしれません。
塩分については、別の機会に改めて書きます。

病院の食事は1つの主菜(メインのおかず)と2種類の野菜食というのが基本パターンです。なお、味噌汁やスープ類は塩分が高いのでほとんど出ません。
私は野菜は決して嫌いな方ではありません。さすがにそこまでは野菜を多く摂取していませんでしたが、この薄味の野菜をしっかりと毎日完食することを心がけました。その結果、結構薄味の野菜が大好きになってきました。また、大嫌いだったブロッコリーやカリフラワーなどの野菜も普通に食べられるようになってきました。

ただ、最初の頃はどんぶりにちゃんと1杯つがれるごはんがちゃんと食べられませんでした。勿論、無理すれば食べられたのですが毎食半分弱を残していました。
その上ちゃんとリハビリしていましたので、体重の減りが結構激しく8月中旬には早くも90キロを切りました。栄養士さんからは「ダイエットのペースが速すぎ!リバウンドするよ!」と注意されましたので、何とか我慢してごはんをほぼ食べるように心がけ、それからは「月3キロ」のペースになるよう自分で調整をしました。
退院が10月中旬に決まってからも退院時の体重を83キロに目標設定、結果目標どおり82.5キロで退院をしました。

看護師のIさんからは「体重はこれでいい。リバウンドだけ気をつけて!」と言われましたが、私的には体重の目標は70キロ台の大台が夢ですので、年内の70キロ台到達を次の目標にしましたが…残念ながらこのところ体重はずっと80から81キロ台で安定しています。リバウンドはしていないものの、頭の数字が7を指すことはまだありません。

結果的にリハビリセンターでのダイエット計画は大成功でした。センターで出た食事も結構美味かったのです。今頃、時に食べたくなる時があるぐらいです。
成功の秘訣と言うか「これだけは守れた」ことは、この3ヵ月半一時帰宅の時を除いて「病院で出されたもの以外の食物は一切口にしなかった」ことです。たくさんの方にお見舞いをいただきましたが、見舞いは全部妻と子供の胃袋に消え私は一切口にしませんでした。

3ヶ月これを守れたことが大きな自信になりました!

看護士さんのこと [回顧録]

おはようございます。
今日も通勤電車のグリーン車です。
一昨日の続きで、今日はリハビリ病院の看護士さんの話しです。

まぁ看護士の皆さんには3ヶ月もの間本当にお世話になりました。思えばこんなに長く入院したことなんて、人生ではじめてなので、私の看護士というイメージはもしかしたらすっかり塗り変わってしまったかもしれません。

リハビリセンターの看護士さんにはとびっきりの美人はいませんでしたが、まあ平均以上の人が多く、きれいな人から優しくされるとそりゃあ気分はいいものです。

毎日私の担当になるのは、どちらかというと「お姉さん」系の女性が多かったのですが、皆様一様に「優しく、時に厳しく叱ってくれる」タイプでした。
病院の快適さにつけあがり増長してしまうタイプの私にはちょうどいい「お姉さま」具合でした。

看護士は24時間365日勤務ですから、毎日何回か入れ替わるのですが、毎回その患者の担当が決められます。
また、入院を通してずっと担当の看護士が一人ずつ決められます。(プライマリーナースというようです。)
私のプライマリーナースは、病棟に二人しかいない男性の看護士でした。
最初は年下(20代~30前後)の男性なのでちょっと戸惑いもありましたが、慣れてみると男同士だし結構気楽で本当に良かったと思います。
また性格も男にしては世話好きというか向きの人でした。
Iさん、本当にお世話になりました。

古い人間の私には、看護士=女性のイメージが強いのですが、このIさんと出会って「男性看護士もありだな」と思うようになりました。

ただ、20代30代はともかく、中年になってからの男性看護士はどうなんでしょう。経験がないのでちょっと想像できませんね。

もう一人の男性看護士もいい人でした。入院中何度も血液検査をしました。血を抜きすぎて何カ所も血を抜き、針を刺すところがなくなってしまうことがありましたが、この病院でいちばん採血がうまかったのは彼でした。

Cさん、お世話になりました!
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倒れてから現在まで… その⑨ リハビリ生活<リハビリ編> [回顧録]


回顧録の続編です。今日は入院中のリハビリ訓練についてです。

入院した翌日から、早速リハビリがはじまりました。リハビリは毎週月~金の毎日で1日行うリハビリは3種目×1時間で合計一日約3時間です。

リハビリの項目は下記の3つで、これは脳卒中で入院していた人ほぼ全員に共通のようです。その訓練種目とは
①手=麻痺手の訓練(通称OT)
②足=歩行訓練(略称PT)
③言葉=話す訓練 (略称ST)※これのみ40分訓練
この3つで、それぞれに専門家の訓練士がつき、決められた時間にマンツーマンのリハビリが行われます。

入院日に早速私専用の時間割と担当訓練士が決められ、翌日から早速リハビリが開始されました。

(自身の記念のために)週間スケジュールをここに記録します。
月 11:05~OT 13:10~PT 14:30~ST
火 09:00~ST 10:00~OT 11:05~お風呂 13:10~PT
水 09:40~ST 11:05~OT 13:10~PT
木 09:00~お風呂 10:00~OT 13:10~PT 14:30~ST
金 10:00~OT 13:10~PT 15:15~ST

何となく覚えやすくていい時間割りだなぁ…と喜んでいましたが、この覚えやすい時間が後に一番厳しい地獄の時間割だということが発覚します…

なお、土日は基本的にはオフですが、私の場合は土曜日にもお風呂がありました。(なのでお風呂は週3回)また、土曜日病院に残る方には「土曜日訓練」という簡単なリハビリがあり、土曜出勤当番の訓練士が回ってきて自室で簡単なリハビリをしてくれます。日曜日はそれすらもなく、1日の予定は朝食・昼食・夕食の3つだけです。

リハビリは基本的に1階の訓練室で行われます。最初のうちは5階に迎えに来ていただき、終了後5階まで送ってもらいます。待遇がいいというより「5階以外に一人で行くのは禁止」だったのです。ひとりで訓練に行っていいという許可が出るまで1ヶ月かかりました。

それぞれの訓練の私の場合の簡単なリハビリ概要を書きます。なお、当然ながら同じ脳卒中といってもひとにより麻痺状況はマチマチです。従って、リハビリプログラムも人によってまったく内容が異なります。あくまで、私個人の場合です。

①手のリハビリ(OT)1時間 担当訓練士STさん(♀)
 基本的には麻痺手のマッサージが中心です。ベッドに横になり私の場合右手のマッサージが40分ぐらい。その後机に向かって右手を握る練習やモノを掴む練習をします。私の場合、手の回復速度が極めてゆっくりなものですから、なかなか次のステップには進めませんでした。
 入院中、右手は全く動かない状況から手を握れる状況にまでは1ヶ月くらいで回復しましたが、残念ながら未だに手を開くことは出来ていません。(実は無意識では開けるのですが、命令しても動かないのです。)ただ、入院当初は肘や手首に思いっきり力が入り(曲がったままで動かない状態)自分ではどうにもならない状況だったのですが、いまは緊張が徐々にですがほぐれてきています。こういったところが「手は一番回復が遅い」と言われる所以なのでしょう。ただ、本当に亀の歩みですが少しずつではありながら進歩しているとも実感しています。
このOTは退院後も継続、今後も治療を希望している内容です。

②足のリハビリ(PT)1時間 担当訓練士Nさん(♂)
 歩行訓練です。一番リハビリ状況が退院や社会復帰に直接影響するリハビリです。前の病院ではほぼ何のリハビリもしていなかったのに等しいので、まず「立つこと」からがスタートです。その後、杖を使って一歩づつ歩けるようになると、病院内250メートルの一周散歩です。最初は休憩しないと病院内も一周できず健常者の数倍(通常1分~2分で歩く⇒10分以上)で歩きますが、1ヶ月も経つと病院の外周600mを何とか歩けるようになります。但し、これも最初は1時間たっぷりとかかりました。(クタクタになりました)
2ヶ月目からは外周散歩、スロープ、階段と徐々に行動範囲が広がってゆきます。
8月後半からは病院外歩行の許可もでて、訓練士と近所を散歩です。徐々に杖を持たなくても歩けるようになり、杖なしでもある程度の距離を歩けるようになりました。
しかし、ここに時間割の落とし穴が潜んでいました。私のPTは月から金まで全て13:10~、そう一日で一番暑い時間帯です。訓練室や病院内は冷房がバッチリ効いているので何とも思わなかったのですが… 外に出るようになると、暑さがモロに響きます。特に去年の夏は記録的猛暑… 歩く速度は遅いのですが、体力は通常時より使います。外を歩きながら何度か「35℃を超えましたので、熱中症に注意!」という地域放送を聞きました。何度か熱中症になりそうな気がして、一度だけギブアップして戻った事があります。ただ、毎日ギブアップしていると上達しないし…暑さでふらふらになりながら「涼しいアサイチや夕方に変わりたい!」と時間割を恨んだものです。

この訓練は退院後も2ヶ月行いましたが、もうやらなくても大丈夫かなぁとも思っています。まだ完全ではありませんが、会社に行くことがリハビリですから。歩く速度はまだ遅いのですが、徐々にスピードは上がっていくでしょう!
そう、今でも杖をついて通勤しています。上述の通り杖なしでも実は歩けるのですが、周囲の人に「病人」と意識付けるためにも、杖は有効ですので、杖歩行は当分続けます。因みに、家の中では杖は使っていません。

③言葉のリハビリ(ST)40分 担当訓練士SNさん(♀)
 脳卒中で失語症になる方も多く、そのための「話す」リハビリです。倒れた当日は家族とも殆どコミュニケーションが取れなかった私も例外ではありません。元々早口で言葉が聞き取りにくい私ですので、病気によりその聞き取りにくさも倍増しました。
 このリハビリでは、最初本を読んだりしているリハビリが中心でしたが、そのうち雑談タイムが中心になりました。
毎回、自分の趣味や生い立ちを訓練士(比較的若い女性です)に話すのです。自分の記憶を整理するにも有効なリハビリでした。個人的に色々なことを人生で初めてと言っていいくらいにカミングアウトしてしまいました。
最初は非常に聞き取りにくかった言語も、少しづつ回復と共に聞き取れるようになったようです。ただ、もともとせっかちで早口なのは性格なのでそう簡単には直りません。
このリハビリは退院と共に終了となりましたが、担当訓練士からは「あの戦場カメラマンのようにゆっくり話そう!」と最後まで言われ続けました。
個人的にもそうしたいのですが… やっぱり生まれ持った性格はそい簡単に変えられそうにはありません。

これについては…今後も努力します!

倒れてから現在まで… その⑧ リハビリ生活<日常生活編> [回顧録]


毎日ブログを休まずに打ち続けていますが、その割には左手一本のキーボード操作が上手くならず、ちょっともどかしい毎日です。特に文章の打ち間違えが多く、字を消しながらイライラしています。通勤途上で書き込みしている携帯の方が早いぐらいです。まぁ携帯には予測機能がついているので、全ての文章を打たずとも勝手に予測→変換してくれるので、本当に携帯の方が(同じ片手ならば)早いのでしょうね。
そんなに予測機能が使いたければ、自宅にATOKを買えばいいのですが、当然会社のPCはATOKなどなくIMEなので、それじゃぁリハビリにならないですよねぇ…
ということで、めげずにこのまま頑張ります!!


さて、6日ぶりに回顧録の続きを書こうと思います。
前回はリハビリ病院に転院するまでのことを書きましたが、今回からは3ヶ月半に渡る長かった入院・リハビリ生活についてボチボチと書き綴りたいと思います。

埼玉県総合リハビリセンターでのリハビリ入院は7月8日から10月19日と人生最長期間になりました。前の病院では基本的にはベッドに寝たままでしたが、この病院では基本的な生活のベースは「車椅子」です。私に合うような大き目の車椅子を探していただき、3ヶ月の車椅子生活のスタートです。

前病院では、兎に角暇さえあれば横になって眠っていましたが、この病院では、「これからは回復を目指すリハビリなので、基本的には朝起きてから夜寝るまでの間はベッドに横にならないように」と言われ、寝ることが出来ません。
また、最初のうちはベッドから車椅子やトイレなどへの乗り移りも自力では出来ません。起きるときも寝る時もナースコールで看護士を呼び出して移してもらいます。勿論トイレも自分では出来ず、もよおしたら大小に拘らずナースコールです。

部屋は4人部屋ですが、寝るとき以外には大きなTVなどがある共用スペースで過ごすことも少なくありません。病室は5階で、この5階の入院者は基本脳卒中で倒れた全員同じ病気の方々だそうです。その割にはお互いに病気の話しをすることもなく、割と寡黙な方が多かったように思えました。(これは、入院している人によっても大分変るようです。後半に入ってきた人は、話し好きなひとがかなり多くなりました。)患者のリハビリは誰も3ヶ月が基本で、3ヶ月前後で退院してゆきます。そうすると、また別な患者が入ってくる仕組みです。

病院の一日は、平日は大体こんな感じです(私のパターン)

06:00頃 起床 
06:00~07:00 朝の血圧測定
07:00 洗面・歯磨き後共用スペースでTV
08:00~ 食堂にて朝食
08:30頃 訓練前の血圧測定
09:00~ リハビリ(個人別時間割あり 1日3時間 ※詳細後日)
12:10~ 食堂にて昼食
13:10~ 午後のリハビリ
15:00  リハビリ終了 フリータイム
18:00~ 食堂にて夕食
19:00  ベッドに移動してTVを見る
       夜の血圧測定
21:00  睡眠(睡眠導入剤服用で眠る)※消灯は22時

平日はこんな感じですが、土日はリハビリがないので朝からずっと自由時間です。簡単に言うと終日メシ食うしか予定がなく、死ぬほど暇な休日になります。
ある程度歩いたり自分のことを自分で出来るようになると週末には「一時帰宅」といい自宅に帰ることが認められます。
私の場合最初に一時帰宅が認められたのが8月の最終週、つまり、倒れてから二ヵ月半でようやく自宅の地を踏むことが出来たのです。


倒れてから現在まで… その⑦ リハビリ生活<転院編> [回顧録]


2つ目の病院から、ようやく「リハビリ病院への転院」の許可が出て、いよいよ本格的なリハビリの開始になります。
さて、最初の大きな問題は「リハビリ病院をどこにしようか」です。前回の転院とは違い、どこの病院が良いかの「分析」と「決定」は自分で出来るようになっていましたので、とにかくリハビリ病院の情報収集を妻と子供にお願いしました。勿論、「自分が倒れたら」という事前研究なんて想像もしていませんでしたし、リハビリ病院に関する予備知識なんてものは一切あるわけがありません。病室でネット検索ができればいいのですが、携帯電話ですら持ち込みがばれると厄介な病院でしたので、時間は死ぬほどあったのに自分での検索作業は諦めざるを得ない状況でした。(もしネット検索が出来ても、リハビリ病院の評判や口コミなどは非常に情報が乏しく、恐らくあまり役に立たなかったであろうと思います。)

その結果、埼玉県にいくつもリハビリができる病院があることが判明しましたが、妻の「地元ネットワーク」である近所の評判によると、上尾にある県の施設「埼玉県総合リハビリテーションセンター」が良いとのことでした。特に妻は「公立なので入院費が安いらしい」ということがお気に入りです。確かに数ヶ月は勤務が出来ないことが確実な状況でしたので、家計を守るためには出る費用は極力抑えなければなりません。
他にも病院はありましたが、特に惹かれるようなメリットもなく、入院中の病院でも「公立だからまぁいいんじゃない」的なコメントで、まぁ妥当かなぁと思えるという評価でもあったので、早速この病院に連絡をしたところ「1週間後に入院可能」という回答をいただいたので、この病院に転院することを決定しました。
この選択… 結果的にはまぁ満足しています。例えば都内の病院には長嶋監督の治療で有名になった病院もあり、このあたりはリハビリはかなりしっかりとやってくれるようですが、費用はかなりかかるようです。(噂なので、真偽の程は未確認ですが)その時の情報収集では、残念ながらこのような病院の存在は知る由もありませんでした。(実は、2ヶ月前に脳卒中で入院していた元上司が、この病院に入院していたことを後で知りました。鉢合わせしていたら大変でした。)

7月8日、18日間殆ど個室でTVばかり見ていたこの病院ともようくお別れです。来た時と同じように介護タクシーに運ばれ、埼玉県内を50分ほどドライブ。今度は土地勘のある道も通り、ある程度現在地を把握できたり、自宅の近くを通った時には「絶対早く帰ってきてやる!」と決意を新たにしたりしながら、10時過ぎにはリハビリセンターに到着しました。

いよいよ、3ヶ月にわたるリハビリ生活がスタートを迎えることになります。


倒れてから現在まで… その⑥ 2つ目の病院 [回顧録]


6月21日、脳卒中で倒れてから6日目です。取り急ぎ危機はとりあえず脱したと言うことで、自宅近くの病院に転院です。
実は、この病院をどうやって選んだのかはよく知らないのです。家族が病院に詳しい訳は全然ないので、恐らく最初の茨城の病院からの紹介なのでしょう。まぁ、茨城の病院では見舞いに来るにも片道2時間以上かかるわけですから、埼玉への転院は大歓迎です。そんな遠距離なのに、ほぼ毎日のように見舞いに来てくれた妻と子供には本当に感謝です。
転院当日、ベッドに寝たまま兎に角何の思い出も何もないICUとお別れです。完治した暁には、どんな病院だったのか一度は見てみたいような気もしますが、その時は周りを見回す余裕もなく、ただ青い空だけがひたすら印象に残っています。感傷にひたるという余裕は全くなく、まず出られたことに感謝です。(まだ、この病院を「見に行きたい」と思うような精神的余裕は生まれていません)
妻が手配した介護タクシーというベッドのままに乗る車に初乗車、2~3時間かかるという不思議なドライブです。発症直後なのに医者や看護士は一切同乗せずの長距離ドライブなので、「万一、何かあったら終りだなぁ…」ととっても怖かったのをよく覚えています。

転院した病院は埼玉北部久喜市の久喜駅前にある新井病院というまあまあ大きな病院です。私の自宅からは久喜まで電車で2駅と近く、場所的には文句なしです。久喜のヨーカドーあたりには買物によく行ったので、駅前の土地勘はあったのですが、この病院は知りませんでした。
茨城から下道を通って2時間半程度、特に心配した体調悪化もなく無事に到着し、すぐに病室へ。今後入院がどのくらいの期間になるか皆目不明のため、入院費用は極力節約しなければならないところですが、生憎相部屋に空きはなく、とりあえず個室への入院です。なおこの病院への入院は18日間でしたが、結局退院直前まで相部屋が空くことはなく、最後まで個室で過ごすことになりました。

この病院での治療は救急病院の治療の延長のような毎日でした。茨城との違いはICUではなく病室だったのでTVがありましたから、殆ど寝ていることに変りはありませんでしたが寝ている以外の時間は大半TVを見ていました。病院のテレビカードは1,000円で15時間視聴できるのですが、2日に1回はカード購入をお願いしていましたので、一日10時間は見ていただろうと思われます。こんなように毎日TVばっかり見ていた私なので、すっかりTVには詳しくなりました。丁度W杯サッカーの時期、流石に深夜の中継は病院から止められて見られませんでしたが、試合翌日本田のゴールの瞬間は何度見たことか… 人生で一番TVを見た3週間だったと思います。
ここでの治療は基本的には毎日点滴などの治療です。時折ベッドに寝たまま別の場所に運ばれ、CTスキャンなどの検査を受けました。移動は勿論寝たままです。最初は下にも管をつながれ、トイレも垂れ流しでしたが、転院後1週間ぐらいでチ〇チ〇の管がはずされ、「小」は看護士(全員女性、結構若い人も多い)を呼んで尿瓶で処理です。「大」は看護士さん2~3人がかりでおまるに座らせてもらうのですが、この頃から便秘気味になり、入院中2~3回程度しかお世話になった記憶がありません。なお、便秘ですが50年間一切そのような症状はなく、快食・快便の私でしたが、その頃から今でも苦しむようになりました。脳卒中で倒れた方には、その後便秘で悩む方が多いんだそうな。また、風呂にも何回か入れていただきました。ベッドのままお風呂まで移動し、寝たきり用の風呂マシーンにうつされ、その後風呂場に運んでもらえるハイテクな設備です。結構感動の瞬間でした。
この病院にはリハビリの施設はありません。まぁ転院の目的も「救急治療その2」みたいな意味合いですからリハビリは「もう少し直ってから」と思っていました。ただ、リハビリのないこの病院でしたが、楽しみの一つに簡単なリハビリがありました。一人だけ理学療法士さんがいて、出勤の日は30分程度リハビリのようなことをしてくれます。麻痺している手や足のマッサージをしてくれ、その後ベッドから起き上がり「ベッドに座る練習」や「立つ練習」をします。残念ながらその時点ではベッドに座ったり立ち上がったりすることが精一杯です。「これ、回復まで先は長いぞ~!」と思わざるを得ませんでした。後で文献を読むと「リハビリは、兎に角早く始めた方がいい。極論すれば倒れた翌日からでもはじめるべき。」というのがここ最近の風潮のようで、その意味ではこの病院にいた約3週間が勿体無かったともいえますが、まぁ、今更仕方ありませんね。

ようやく7月になり、先生からも「そろそろ転院してリハビリを。」という許可が出て、いよいよ3箇所目の病院に転院、リハビリ生活を送る日々が始まることになります。

倒れてから現在まで… その⑤ 救急病院での5日間 [回顧録]

しばらく現状が続きましたが、久々に病状回顧録です。

茨城の救急病院には結局5日間滞在し、6月21日までいました。
当日、家族がきてしばらくしてからは、全然会話が通じない状況から少しづつ会話が成立する状況になりました。最初は私も「あれ、思ったように言葉が出ない!?」といささか慌てましたが、相手が特に妻子なので、まぁ何とか通じたということでしょうか。意味不明言語には妻も子供も一番焦っただろうと思いますが、家族曰く10分の1ぐらいの言葉は何とかすぐに判るようになったらしいので、最低限のコミュニケーションラインはとりあえずすぐに復旧しました。
車も貴重品もゴルフ場に置きっぱなしでしたが、家族3人で何とかゴルフ場のせーフティボックスを開けることができたようです。貴重品金庫の暗証番号は、結婚当初から25年間変えていないことが功を奏しました。車は、ペーパードライバーの息子が埼玉まで運転して帰ると言ったので発症直後で動けないながらとっても心配しましたが、流石に高速には乗らず下道で3時間近くかけて何とか無事故で帰れたようです。

このゴルフ場近くの救急病院には6月21日まで5日間滞在しました。ベッドは結局ICUのまま寝返りも一切打てず、結局隣に人がいるのかどうかは5日間遂に判らずじまいでした。
排泄器官(チ〇コ)にも肛門も別の管がつながれ、大小便は垂れ流し状況です。食事は最初の3日間ぐらいは点滴のみ、最後の2日間だけは流動食のような食事を口に入れることが出来たようです。
テレビはICUですから勿論ありません。結局眠り続けるしかすることがありません。倒れた翌17日には、ある人のパーティーに出席のアポがありましたが、当然ながら参加できず。「断らなきゃ」と思っていましたが携帯とメールはベッド脇でドンドン鳴るものの、電話もメールも出来ない(手が届かない)状況でした。結局滞在5日間ずっとICUのベッドで寝たままです。ドクターも看護士の方も、見る余裕は一切ありませんでした。
この病院に入院中、会社の人など茨城に縁のある方数名の方には早速お見舞いをいただきましたが、何とか判明する言葉をしゃべるのが精一杯でした。この病院にお見舞いいただいた方は「こりゃ、かなりやばいな…」と思われたことでしょう。因みに、ゴルフメンバーには当日夕方早速お見舞いいただきました。私も「来てくれた」ということはわかったものの、言葉を発することが出来ず、「すみません」の一言のコミュニケーションが出来ませんでした。

それでも何とか危機は脱したらしく、「もう動かしても大丈夫なので、家から近い救急病院に転院したら…」と言われ、5日後の21日にベッドに寝たまま介護タクシーに運ばれ、茨城の病院を後にしました。病院の風景はこの移動するときにベッドの中から見た景色が唯一見た病棟以外の景色でした。
とにかく、ひたすら眠り続けた5日間でした。

倒れてから現在まで… その④ 運命の日6月16日=その2=  [回顧録]


昨日に続いて当日のダイジェスト2回目です。

倒れて、救急車を待っている間は不思議な気分でした。
凄く痛いわけでもすごく苦しいわけでもないのですが、「気分が悪い」という気持ちはずっとありました。勿論、半身が動かないわけですから、これは尋常ならざることという認識はあり、「どうしたんだ??何が起きたんだ??」という驚きはありました。
後日一緒に入院していた同じ病気(脳内出血)の人に聞いたところ、「発症直後は頭が割れるように痛かった」と仰っていましたが、私の場合は上述の通り痛さはそんなにありませんでした。
ゴルフコース上ではなく、クラブハウス(レストラン)で倒れたので、救急車はおよそ10分ぐらいで到着したでしょうか。この間意識を失うことはありませんでしたが、徐々に事の重大さが自分の中で重くのしかかり、「このまま死んじゃうのかなぁ~! 死にたくな~い!」という気持ちが強くなり、だんだん意識の中は「死にたくないモード」一色になったわけです。
同席していただいた先輩の後日談によると、救急車は10分ぐらいで到着したそうです。それから、救急車ですぐ受け入れ病院が見つかり、搬送までも10分程度(勿論、本人の記憶では冷静に時間を図ることは出来ません。全て後日聞いた話しです。)
本人ですが、救急隊が到着していた瞬間は鮮明に記憶しています。ただ、このあたりから記憶が途切れ途切れになります。決して「痛かった」とか「死ぬほど苦しかった」というわけではないものの、やっぱり記憶が飛ぶくらいには苦しかったのでしょう。
10年以上前に一緒に働いていた1年先輩(I氏)が大好きなラウンドを途中放棄して救急車に同乗してくれました。I氏の記憶によると救急車内でも救急隊員の質問に本人は比較的しっかりと回答していたらしいのですが、本人の記憶はもうある程度曖昧です。とにかく「死にたくない!助かりたい!」ということだけを必死に念じ続けた時間でした。

気がついたら、大きな部屋のベッドに寝ていて、上から何本もの(よく考えたら)点滴につながれていました。頭は比較的冷静で、「これだけ何本もの線につながれているんだから、きっと助かったに違いない。」と、とりあえず死んでいないことに心からほっとしました。しかしながら右半身を動かそうとしてみても手足は全く動かず、「死にはしなかったものの、大変なことになっちまったなぁ…」 頭の中は比較的冷静でした。 
少し余裕を取り戻して左右を見回してみると、大きな病室には(左右を覗く余裕はありませんでしたが)ベッドが複数あり、恐らく他の重い人が寝ているICUのような病室だろうな…と想像しましたが、後で確認するとやはりICUでした。結構大きなICUのあるこの病院はそれなりに大きな救急病院で茨城にしては(失礼?)大きな東京医科大学茨城医療センターだったのです。倒れた場所(コース内ではなくクラブハウス)といい迅速な救急車対応といい運ばれた病院といい、かなりラッキーだった状況だったと言えます。
時間の観念はすっかりなくなっていましたが、とりあえず眠り続けました。途中I先輩が様子を見ていてくれることがわかり、「あぁ、Iさんはゴルフを放棄して看病してくれているんだ」ということだけわかり、「知り合いがいて良かった」とまずは組み合わせに感謝したものです。
その後、時間はわかりませんがカミさんと二人の子供が駆けつけてくれました。「パパ大丈夫!?」という第一声に「あ~ぁ、みんなわざわざ悪いね。」と返事したつもりだったのですが… 実際に出た声は「アウアウ」程度だったようです。この第一声を聞いた家族は「言葉をやられた~!」と思ったそうです。I氏が自宅と会社に連絡してくれたらしく、カミさんが既に働いている二人の子供に連絡し、取り急ぎ仕事を放り出して駆けつけてくれたようです。



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